サトルくん、わたし昨日クレープ焼いたよ。
いりこんぶ
第1話 お布団を敷くかわりにクレープを焼く
お布団を敷く代わりにクレープを焼く。
夜中になにをやっているのだろう。
後悔は雪崩のように押し寄せてくるけど、同じようにとろとろとクレープの生地はお玉からフライパンに流れ込んでいく。
いやがおうにも。
そういう単語が頭に浮かんだ。
夜中、日付も変わったにも関わらず、わたしは台所で小麦粉と砂糖と卵とバターの甘い香りに包まれている。
これは二枚目のクレープだ。
一枚目はおうおうにしてそうであるように上手く焼けなかった。
お皿の上でぐじゃりとしぼんだ朝顔みたいに二つ折りになって、薄黄色の身をよじらせている。みじめな姿だった。今日の私みたいに。
みじめな夜にはお菓子作りをするのだと教えてくれたのはサトルくんだった。
サトルくんは父の従兄弟で、ちょっとセクシーなダンスをすることで生計を立てている。ちょっとセクシーというのがどのくらいのセクシーさを指すのか、詳しいことはわからない。わたしが二十一歳になった今でも「教育に悪い」と教えてもらえないからだ。
サトルくんは背が高くて、足が長くて、おまけに姿勢も良いので道を歩くとたいていの人より大きくて迫力がある男の人だ。
うなじより長く伸ばした黒髪はゆるいウェーブヘアで、大概はへらへらとしているのになんとなく只者ではない雰囲気をまとっている。
出会った時のサトルくんはお兄さんだったけど、今のサトルくんは四十八歳のおじさんだ。シワが増えて、肌に疲れが見え始めて、それでもやっぱり彫りの深いきれいな顔をしている。
そんなサトルくんに、わたしは今日失恋をした。
二枚目のクレープ生地がフライパンの上でふつふつと泡を作り出したので、一呼吸分だけ間を置いてからフライ返しを使ってえいやっとひっくり返す。柔らかな円形を確認して、わたしは頭の中に花丸を描いた。最低な気分の時にも、良いことはちょっとくらいある。
中学二年生のわたしが人間関係に悩んでいた時、商店街のお肉屋さんまで連れ出して万札を出しながら「コロッケでもメンチカツでも好きなだけ買えば」と言い渡してくれたのもサトルくんだった。
土曜日の夕方だったから、サトルくんは「出勤前は決まったものしか食べない」とコーラだけ飲んでいた。春と夏のあいだくらいだったから外はまだまだ明るくて、いつまでも日が暮れない気がした。思い出の中の夕暮れは何故かいつも薄い水色をしている。
クリームコロッケ八個とメンチカツ二個というのがわたしの選んだ答えで、公園のベンチで少し小ぶりな俵型のクリームコロッケを次々と口に放り込むわたしを見ながら、サトルくんは「それでいいよ」と“なにか“を肯定した。わたしは指についた油を舐めながら、心に空いた穴みたいなものが満腹感で埋められるのを感じた。
サトルくんはいわゆる夜のお仕事をしているので、親戚からは遠巻きにされていたけれど、うちの父とだけはわりに気が合うらしく、結果としてわたしも可愛い姪っ子として可愛がってもらっていた。
お盆とかお正月とか、そういう親戚の集まりには来なかったけど、入学式の一週間後とか夏休みの終わりかけとか、そういう中途半端な時期にふらりとやって来て一緒にごはんを食べたり良き相談相手になってくれた。
そういう関係を、今日ぶち壊してきた。
お菓子作りというのは本当に良い。
しきたりみたいなものがあって、正しくあることが正しい。だまを作らないためには小麦粉はふるって、バターは二百グラムといったら二百グラムで、一枚目のクレープは犠牲になる。
料理というより科学の実験やスポーツの練習みたいだ。最適解を選び続けること。
現実を生きていると最適解を選びつづけるのはとても難しいから、わたしはこうしてお菓子を作っている。深夜のひそやかさも水のようにわたしを優しくくるんでくれる。
六枚目のクレープをお皿の上に重ねながら、あと三枚は焼けるかなとあたりをつける。フライパンが熱くなりすぎている気がしたので、濡れ布巾の上に置いて少し冷ます。じゅっと焦げた音がした。
「わたしはサトルくんのこと、好きだよ。けっこう。そういう、なんか、そういう意味で」
15時のモスバーガーでわたしが放ったなにかを伝えるには下手くそすぎる言葉を、サトルくんは正しく恋や愛の言葉だと理解して受け取ってくれた。
「ありがとう」というのがサトルくんの返事で、そういう返事の仕方を慣れているって言い方だった。
「俺は加美子ちゃんのこと同じ意味では好きになれないけど、うれしいとは思うよ。申し訳ないし、悲しいことでもあるけど」
サトルくんは男の人も女の人も好きじゃない。
正確には、好きになれるけど他の人と同じような意味では好きになれない。例えばキスはできるけど、セックスはしたくない。
そういう意味のことを、サトルくんは「犬は好きだけど飼いたくない人もいるでしょう?」といいながら淡々と説明してくれた。
はっきり言って、サトルくんは例え話が下手だと思う。
でもなんとなく、なんとなくだけどしっかりとわかってしまった。
わたしはどうしようもない理由でフラれたし、サトルくんはどうしようもない理由で断ったのだ。そこには深い壁か溝かあるいはどちらもがあって、そういうのってほんと、どうしようもないのだ。
わたしが謝ると、サトルくんは「いいよ」といつもみたいにへらへら笑った。
サトルくんの口元のシワは、こんなことは今までたくさんあった、というくっきりとした深さをしていた。
親戚の誰にも似ていない、古びたギリシャ彫刻のような横顔。
静かなサトルくんの目を見て、わたしは自分が取り返しをつかないことをしてしまったことに気付く。
最後、十枚目のクレープは小さくていびつな形になったので、お皿には取り分けずそのまま食べた。端っこのだまになった部分はかりかりで真ん中はクレープのくせに厚ぼったく焼き上がっていて、まあこれはこれで美味しい。
狭いマンションの部屋の中をわざと大股で歩いてお皿に載せたクレープをTV前のローテーブルまで運んだあと、冷蔵庫や棚とにらめっこしながら、クレープに合いそうなありったけの食べ物も運搬した。
ヨーグルト、使いかけの夏みかんマーマレード、バター、グラニュー糖、マヨネーズ、ツナ缶、板チョコレート、コーンフレーク。大体そんなところだ。
レタスや生クリームがあればもっと良かったけど、今からコンビニまで行くにはお腹が空きすぎていた。あるものしかないのだ。楽しもう。
わたしは丸いクレープの上にヨーグルトをたっぷりのっけてマーマレードを乗せてお砂糖を振ってから素晴らしく美しい三角形のクレープを作り上げた。そのまま惜しまず頬張ると、ヨーグルトの酸っぱさと夏みかんの酸っぱさが少し違って、でもどちらにもお砂糖の甘さが優しい。
二枚目は板チョコだけをそのままくるむ。
ぱきっとした食感とクレープ生地のふにゃふにゃの甘さは素晴らしい組み合わせだ。
そして口が甘っぽくなったらとうとうツナ缶の出番。マヨネーズを絞り出して、最後にバターなんかも塊で置いちゃって。
わたしはなにもかもを頬張りながら、涙をこらえることを諦める。眼球が熱くなって、ほたほたと泣いてしまう自分を認める。
サトルくんのことが、いつのまにかそういう意味で好きだった。
サトルくんは誠実なのにサトルくんの相槌はいつもなんとなくどうでもよさそうで、怒っている時も悲しい時もサトルくんに話すと大したことじゃないんだと思えた。
決まってだぼだぼの黒い服を着ているけど、実は鍛えあげられた肉体をしていることはちょっとどころじゃなくセクシーだと思っていた。
サトルくんがどんなダンスを踊っているのかすら知らないくせに、“可愛い姪っ子の加美子ちゃん“で満足できないわたしは傲慢だった。
食感を変えると、おなかがいっぱいになってきていても口の中が楽しいからまだ食べられる。
わたしは泣きながらコーンフレークを砕いてマーマレードと混ぜる。
明日の朝にっこりと笑うために必要なカロリーと幸福感を摂取する必要があった。
そういう大切なことは全部サトルくんが教えてくれたから、ちゃんと消化したい。
時計がぼんと短く鳴って一時を告げる。いつもならとっくに眠っている時間だ。
結局六枚のクレープを食べた。息を吐くとお腹がはちきれそうだった。
残ったクレープはラップをかけて冷蔵庫にいれる。
空き缶は捨てて、中途半端に残ったチョコは片付けながら無理やり口に放り込んだ。
洗い物はシンクに置いて見て見ぬふりをすることに決め、歯を磨く。ミントのすっきりした香りで嘔吐反射が刺激されそうになるのをこらえて、最後に洗口液でうがいもする。
それからようやく、お布団を敷く。
パジャマに着替えて、敷布団と掛け布団の間に身体を潜り込ませる。いっぱいいっぱいになったお腹があたたかくなってよく眠れそう。
わたしは仰向けのままお腹の上で手を組んだ。祈りのようなポーズでとろとろと眠気が忍び寄ってくるのを感じる。
今頃、サトルくんは踊っているのだろうか。スポットライトを浴びながら腰を振ったり、お尻を突き出してみたりするんだろうか。
想像してみようとしたが、ちょっと難しかった。
お腹の熱がだんだんと四肢の先まで伝わってまぶたが重い。小麦粉とバターとお砂糖とチョコレートと、そういういろいろなものが身体の中に染み込んでいくのがイメージできる。
わたしは、サトルくんが昔わたしにそうしてくれたように、サトルくんのことを「それでいいよ」と肯定できる人間になりたかった。
「サトルくんは、いいね」
眠りに落ちる直前、呟いてみる。
サトルくんは、それでいいよ。
大きなあくびが出て、涙が一粒落ちてそれからようやく、わたしはみじめさを手放して明日のために一日を終わらせる。
サトルくん、わたし昨日クレープ焼いたよ。 いりこんぶ @irikonbu
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