「♯」


 しばらく歩き続けて、大きな公園の近くに出る。広い空を見上げると、薄い雲から光が差していた。

 ふと、口をついて出たのは智昭のブルーノート。

 shower in the blue、だっけ。私にとっては懐かしいその曲を口遊みながら、ゆっくりと歩いていく。


 元気を出さなくちゃ。人生はまだまだ続いていくのだから。仕事が上手くいかなくても、またイチから頑張ればいい。ここから逃げない限り、ずっと道は続いていく。この十年でそれを知った。

 それに私はもう逃げないと決めたのだ。何があっても、きっと。


 唇を結んで、強い決意でまた一歩を踏み出した。その時、ポケットに差していたスマホが震える。

 知らない番号。たぶん仕事の電話だろう。


「はい、千草ちぐさです」


「──明子?」


 低くて甘い、懐かしい声。そんなまさか。そんなこと、ありえないと思う。頭では否定する。でも心は、その声が彼のものであると確信していた。


「智昭……?」


「久しぶりだな、元気そうじゃねーか。十年……いや十二年振りになるんだな、もう」


「どうして、この番号を」


「お前、オレの弟子と知り合いだったんだな。さすがに驚いたよ」


「弟子?」


新橋しんばし浅葱あさぎ。知ってるだろ? アイツ、才能の塊なんだよ。ジャズをやるために生まれてきたような男だぜ。もちろんオレの次くらいだけどな」


 浅葱くんがジャズを? 研究って、まさか音楽だったなんて。そんなこと彼は一言も言ってなかったのに。


「アイツ、すげぇプレイするのに、まぁ自信のねぇヘタレでさ。でもさっき電話してきたんだ。一丁前に、逃げねぇから覚悟してろって言いやがった。今後が楽しみだぜ」


 楽しそうにケラケラと笑う智昭。十年以上も経っているのに、全く距離を感じさせないその声。いつものように自信たっぷりな態度は、全然変わっていなかった。


「いや、そんなことよりだ。明子、見たか?」


「見たって、なにを……」


「獲ったぜ、グラミー。憶えてるよな、オレがグラミー獲ったら何してくれるか、って話」


 いつか、智昭が冗談のように言っていた言葉を思い出す。それに返した自分の言葉も、鮮明に。


「もう十二年も経ってるんだよ? 今更なに言って、」


「あぁ、獲るのに十二年もかかっちまった。それに関しては謝るよ。でもな。オレはお前ともう一度会うために、ここまで頑張れたんだ。お前の存在が、オレをここまで成長させてくれた。だから、」


 一呼吸おいて。

 決意めいた口調で、智昭は続けた。


「来月、公演で日本に戻る。その時、なにしてほしいか直接言うから覚悟しとけよ」


 智昭はまた笑った。

 あの時と同じ、低くて甘い声で。

 そしてその声は、まるで。


 初夏色に染まる、優しいブルーノート。




【終】


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初夏色ブルーノート 薮坂 @yabusaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説