「♮」



「──オレさ、将来プロになるよ。そんで絶対にグラミーを獲る。オレのジャズでグラミーをな」


 ことあるごとに、智昭は自分の夢を語った。夢は口にしないと叶わない。それは智昭の口癖だった。


「相変わらずの自信家だね。どっから来るの、その自信?」


「音楽やってるヤツなんか、みんなこんなもんだろ。オレの音が一番だって思ってねぇと、客を沸かせられない。なぁ明子、オレがグラミー獲ったらどうする?」


「その時は、何でもいうこと聞いてあげるよ。そんな時、まぁ来ないと思うけどね」


「言ったな。よし、何をお願いしようか考えとく」


 智昭はニヤリと笑った。オレ様タイプで、ともすれば自信過剰に見えるけれど、それを言うに足る努力を続ける男で。それに智昭は、私のプレイを好きだと言ってくれる人だった。


「グラミー獲るに当たって、まずはお前に勝たねぇとな。オレと明子のスタイルは全然違うけどさ。やっぱりお前に勝てねぇ部分があるよ。特に高音の抜けだ。どうやったらあんな風に弾けるのか、不思議でならねぇよ」


 そうやって、低い声で褒めてくれる智昭が好きだった。

 音大の同期で、場所は違うけれど田舎から出てきていて。ジャズピアノを愛する私たちが惹かれあったのは、ある意味で運命だったのかもしれない。


 智昭は暇さえあればピアノを弾いていた。嬉しそうに、楽しそうに。私もそれと競い合うようにピアノを弾いた。

 楽しかった。毎日が音で輝いていた。智昭とピアノさえあればそれでいい。私の世界はその二つだけでいい。本気でそう思えるほど、私は智昭とピアノを愛していた。



 そしてついに。智昭にチャンスが来た。ジャズの本場、アメリカへ留学の話。特待生扱いのその話に、智昭は猛った。このチャンスをモノにして、プレイヤーとして一気に駆け上がってやる。そんな意気込みだった。

 私はそんな智昭が羨ましかった。そして自分のことのように嬉しかった。だけど私にだって小さな矜持はある。智昭に負けないように、私も選ばれるようにとピアノに噛り付いた。ずっと、智昭の隣にいられるように。



 そしてそれが、原因だった。



 ──高音が聞こえない。きっとオーバーワークだったのだろう。突発性難聴と診断された時にはもう、耳は治らないところまで来てしまっていた。

 あれだけ楽しかった智昭とのセッションが、苦痛になるのに時間はそう掛からなかった。どうして私だけが。どうして。何にも悪いことはしていないのに。


 智昭はそれでも私に優しかった。あれだけ好きだったピアノを放り出してまで、静かに泣く私の傍にいてくれた。

 でも結局、それが一番の苦痛だった。高音が聞こえなくなることよりも辛い。将来を嘱望された智昭を、私みたいな存在が足を引っ張っていいわけがない。

 本当に好きだからこそ。智昭とはこれ以上、一緒にはいられない。私と一緒にいてはダメになる。だから私は、その言葉を口にした。



「別れよう、智昭。これ以上、一緒にいたくないの」


「オレはお前と一緒にいたい。大切なんだ、明子のことが。これほど人を好きになったことなんて、今までなかった。明子は特別だ。だからオレはずっとお前の傍にいたいんだ」


「じゃあ選んで。私か音楽か、ふたつにひとつだよ」


「……明子の傍にずっといる。留学も辞める。二人だけでピアノを弾こう。曲を作ったんだ。低音で、ブルージーな曲だ。お前のためだけに作った曲なんだ」


 その時、智昭が聞かせてくれた曲。それがあの曲。泣きそうなくらいに、それはそれは透明な旋律。

 しばらく聴き入ってしまうほどの曲だった。こんなのを書ける智昭は、やっぱり選ばれた人間に違いない。

 だからこそ。そう、だからこそ。この才能を独り占めにはできない。智昭の才能は、世界に広めなければならないものだ。私は枷になりたくない。


「……その答えを聞いて、確信した。やっぱり私と別れてほしい」


「なんでだ、どうしてだよ? オレはただ、」


「私の好きな智昭は、音楽と私なんかで迷わない。絶対に、どうしたって音楽を選ぶ智昭が好きなの。私を選ぶ智昭なんて智昭じゃない。そんな智昭は愛せない。智昭には、ここから逃げずに戦ってほしいんだ」


「……お前は逃げるのか。オレはお前にまだ勝ててない。このまま勝ち逃げする気かよ、明子!」


「さよなら」


 二人で住んでいた、小さな部屋から私は逃げ出した。そして音楽も辞めて、電話番号も変えて。あの街にいた痕跡を全て消して、私は地元に逃げ帰った。今日みたいに降るにわか雨の中を、たったひとりで駆けていく。

 それが私と智昭のコーダ。二度と奏でられることはない、そこで終わった二人の音楽。




         ♮♮♮




「──それが今から十年以上前、かな。私はどうしようもなく臆病で弱虫でさ。でも、智昭のことは本当に好きだった。だからこそ逃げて忘れようとした。でもさ。思い出って、どこまでも追いかけてくるんだね」


 少し前に、智昭がグラミー賞を獲ったとニュースで観て。夢を叶えたのだと知って。そして今日、この曲を聴いてまた智昭を思い出した。

 もう十年以上も前のことなのに、忘れようとしても要所要所で思い返してしまう。その度に、甘くて苦い痛みが小さな胸を締めつける。

 だからきっと、私はこの痛みをいつまでも抱えて生きていくことになるのだろう。


「……あんまり楽しい話じゃなかったでしょ。ごめんね、浅葱あさぎくん」


「僕の方こそ、無理を言ってすみませんでした。いつも明るい明子さんに、そんな過去があったなんて思いもしなかった」


「驚いた?」


「そりゃあね。あの杜若かきつばた智昭ともあきとタメを張るプレイヤーだったなんて、素直に驚きですよ」


「いやいや張ってないよ。あいつ音楽に関しては化け物だったから。もう人外の領域だよ」


 それを聞いた浅葱くんは腕を組んで、何故か不機嫌な顔をする。「確かにあのプレイは人間技じゃねーな」と呟いて、そしてまた続けた。


「でも、そんな杜若智昭と明子さんは付き合っていたんでしょう。音楽の腕は違うかもしれないけど、付き合ってたならやっぱりイーブンな関係じゃないですか」


「どうかな。結局私は逃げちゃったし。やっぱりイーブンじゃなかったのかもね」


「でも明子さんが『逃げた』のは、相手のためでしょ? 自分が重荷になると感じたからじゃないんですか?」


「ううん、そんなのじゃないよ。私は、私から逃げたんだ。高音が聞こえなくなっても、音楽は続けられた。でもそれをしなかった。ただそれだけだよ」


 目の前のシェケラートは、もう随分とぬるくなってしまって。グラスの周りに結露ができている。そっと口を付けると、少し苦味が増した気がした。


「でもね。私は、今の自分がわりと好きなんだ。音楽を辞めて、しばらく死んだみたいに過ごしてたけど。この会社に拾ってもらって、生きようって意思が湧いてきたの」


「なにかきっかけが?」


「ここから逃げない、って自分で決めたからかな。逃げてばかりの人生で気が付いたの。逃げても全然、いいことないなって」


 今でもたまに、この仕事から逃げ出したくなることはある。でもこれは決めたこと。カッコ悪くても、逃げずに精一杯生きていこうと決めたのは私だ。


「……明子さん、僕ね。実は今、思い切り逃げてるんです。今やってる研究で壁に当たって、それを先生にも指摘されて。もう嫌だってなって、さらに逃げようとしてる」


「さっきの電話の話?」


「そうです。ムカつきますけど向こうは正論で。逃げんなって、そう言われて。思わず逃げてねぇって言っちゃいましたけど、自分でもわかってるんです。これが逃げに違いないってことは」


 あの時の私と、なんとなく似ているように見える浅葱くんの顔。だから私は、余計に彼のことが放っておけなかった。


「ねぇ浅葱くん。ひとつ、アドバイスをしようか」


「アドバイス?」


「逃げるのは決して悪いことじゃないよ。誰に何を言われても、自分がそれでいいって本当に思えるならそうしてもいいと思う。でもね、」


 私はもう一度、シェケラートに口を付けて。深い苦味を味わったあと、言葉を継いだ。


「それはずっと追いかけてくる。ふとした瞬間に顔を覗かせる。にわか雨に打たれた時だったり、懐かしい曲を聴いた時だったり。その時に思い出すんだよ、その時の自分を。そして後悔するんだ。あの時こうしていればよかった、ってね。だから少しでも迷いがあるなら、逃げない方がいいと思うな」


「明子さんは、今でも後悔を?」


「少しだけね。ほんの少しだけ。でももう私は時間がほとんど解決しちゃったし、私は今の自分に満足している。だから今、悩んでいる浅葱くんが少し羨ましいよ。その悩みはきっと、キミをもっと強くすると思うから」


「そういうもんですか」


「そういうもんだよ」


「なら、ちょっと考えないとですね。今後の研究と身の振り方。明子さんのアドバイス、参考にさせてもらいますよ」


 シェケラートのグラスを呷って、残りを一気に飲み干した。舌に残る苦さに、不思議と親近感を覚える。きっと私の人生の苦さに似ている。でもこんな美しい苦味なら、受け入れてもいいと思えた。


「……さてと、ごちそうさま。雨も上がったね」


「もう行くんですか?」


「生きていくには仕事しないとね」


 お金をカウンタに置いて、私は立ち上がる。お店に流れていた長い長いあの曲は、そこでちょうど終わりを迎えた。


「あぁ、明子さん。もうひとつ訊いてもいいですか?」


「なに?」


「今でも好きですか? 杜若智昭のこと」


「……まさか。この前たまたまニュースで見たけどさ。グラミー獲って、オレ様度がさらに増してるように見えたし。ああ言う態度は良くないかな」


「なるほど。確かにそういうとこ、ありますよね」


「浅葱くん、詳しいね? もしかして好きだった?」


「プレイヤーとしては尊敬してますけど。でも明子さんの言うとおり、性格は好きになれないな」


「だよね」


 私は笑った。浅葱くんも笑った。


 それじゃあまた、とお店を辞する。浅葱くんは相変わらず、またメールしますねと柔らかく笑ってくれた。私も笑顔を返して、雨上がりの道を歩き始める。


 むっとする熱気。じりじりとした陽射し。やっぱり夏は、もう目の前まで来ている。



【続】



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