初夏色ブルーノート

薮坂

「♭」


 鼻先に、ぽつりと雨が降ってきた。思わず見上げた空は曇天。もう少し持ちそうだと思っていた空模様は、見事に私を裏切ってくれた。

 降り出したにわか雨は、初夏のアスファルトを薄く濡らしていく。独特な匂いが鼻をつく。いつの間にか夏はもう、目の前まで来ている。


 雨雲を眺めて、どうしようかと私は逡巡する。コンビニで傘を買ってもいいけれど、そこまで酷い雨じゃない。それに午後イチのアポが流れてしまった今の私に、急ぐ案件はひとつもない。

 むしろそのアポがなくなっただけに、中途半端な空き時間ができてしまっていた。会社に戻るには時間が足りないし、流れたアポの次の予定までは時間が余りすぎている。


 雨宿りと、中途半端な時間潰し。どこかでこの両方ができれば御の字なのだけどな、と思ったその時に。私の頭の中に、そのカフェがぱっと思い浮かんだ。


 ──あぁそうだ、あそこに行こう。ここからなら、ちょっと走れば五分と掛からない。最近行きつけと言ってもいいくらいに通っている、お気に入りの小さなカフェ。

 お店の名前は「so blue」。路地裏に佇む、知る人ぞ知るという雰囲気のそこは、いつも心地いいジャズが流れている素敵なお店だった。



         ♭♭♭



「──だから、もういいですって。先生に僕の気持ちは絶対にわからない。僕はもうここでいいって決めたんだ、逃げてる訳じゃないですから!」


 お店のドアを開けた瞬間、耳に入って来たのは彼の声。ここの店員である浅葱あさぎくんは、いつも柔和な笑顔を浮かべる優しそうな大学生だ。

 彼とはひょんなことから意気投合して、プライベートなメールをするまでになっている。もちろん恋愛感情なんてカケラもない。だって彼は、私よりもひと回り年下なのだから。


 いつも優しい口調の彼だけど、さっきの声色は珍しくトゲのあるものだった。何があったのだろう。

 ドア付近で固まっている私と目が合うと、彼は少しばつが悪そうな顔をした。そして曖昧な笑顔を無理矢理に作る。


「あぁ、明子さん。すみませんお見苦しいところを」


「取り込み中だった、かな? 出直した方がいい?」


「いや、もう電話は切りましたし大丈夫ですよ。ちょっと意見の食い違いがありまして」


「先生って言ってたよね。先生とケンカなんて、大学生って大変なんだね」


「ほんとすみません、ちょっと研究が行き詰まってて。バイト中は電話に出ないようにしてるんですけど、でも今日は店がコレだから」


 彼は手のひらで店内を示した。なるほどそういうことか。珍しくお客さんが誰もいない。普段私が来ている夜の時間帯は、いつも結構なお客さんが入っているのだけど。


「珍しいね、お客さんが一人もいないなんて」


「お昼はたまにありますよ。路地裏の小さな店ですし。それより明子さんこそ珍しいですね? お昼に来るなんて、お仕事中ですか?」


「うん、今は休憩中。取ってたアポがなくなっちゃってさ。それに雨も降ってきて、傘も持ってなくて。だからここで雨宿りさせて貰おうかな、って」


「ほんとだ、わりと濡れてますね。今タオル持って来ますから、カウンタにでも掛けていて下さい」



 促されて座り心地のいい椅子に腰掛ける。人心地ついたところで、思わず深い溜息が漏れてしまった。


「……どうしたんですか、溜息なんかついて。珍しいですね。何かありました?」


 ゆっくりと浅葱くんは、お水とタオルを運んできてくれた。私はお礼を言って、少し濡れた髪を拭く。


「……鋭いなぁ、浅葱くんは。実は、手掛けてた仕事の案件が白紙になっちゃってさ。半年間も頑張ってたのに、またイチからだよ」


「あぁそれで。いつもと違って元気ないな、って思ってたんですよ」


「むしろ私、普段は元気に見える? そんな単純っぽい?」


「いや、単純には見えませんよ。明子さんと仲良くなってもう三ヶ月くらい経ちますけど、いい意味で底が見えないから。いつも明るく振る舞っているのに、心の奥底は決して覗けない。そこに憧れます。正直言って明子さんみたいな女性、僕は好きですよ」


「やだな、冗談やめてよ。浅葱くんと私、ひと回りも違うじゃんか。大人をからかわないで」


「僕ももう成人してますけどね。今年で二十一、もう充分に大人だと思うけどなぁ」


 浅葱くんはにこりと笑って、「さて今日のご注文は?」と続けた。私もそれに釣られて、笑って「いつものを」と告げる。


「アメリカーノですね、かしこまりました。今日もアイスでいいですか?」


「うん、アイスで。ここに来るまで、雨から逃げようと必死で走ったからさ。飛び切り冷たいのをお願い」


「砂糖抜きのシェケラートにしましょうか? めちゃくちゃ冷たいですよ。エスプレッソをカクテルシェーカで冷やすんです。夏にぴったりですよ」


「じゃあ、それをお願いしようかな」


 またも柔らかい笑顔で笑った彼は、てきぱきとした動作でコーヒーを淹れ始めた。しばらく無言の時間が流れる。

 コーヒー豆をグラインダで挽く音に、エスプレッソマシンが低く唸る音。カクテルシェーカに氷を投げ入れる澄んだ音がして、今度は小気味よいシェイク音が聞こえてくる。


 そして、もうひとつ耳に入ってきた音があった。それは懐かしい音だ。学生時代に聴いた印象的なブルーノート。ジャジーでブルージーな力強い低音。それでいてどこか透明な、もの悲しいピアノの旋律。


「……懐かしい曲。これ、浅葱くんのチョイス?」


「いや、これは叔父のプレイリストですよ。あの人、店が暇だからって、僕に店任せてどっか散歩に行っちゃったんです。全く、いい大人なのに」


「あぁそっか、ここって浅葱くんの叔父さんのお店だったんだね」


「前にも言いましたけど、僕の実家めちゃくちゃ田舎なんですよ。ここからなら大学に通えるし、家賃もいらないし。店を手伝うだけで住まわせてくれるから、僕としては楽なんですけどね。カフェの仕事は好きだから」


 浅葱くんはシェーカを開けて、よく冷えたグラスにシェケラートを注いでいく。細やかな泡を内包するコーヒーが、大きな氷の入ったグラスを曇らせていく。


 目の前に置かれたそれに、そっと口をつけると。キレのいい苦味と風味が、口の中いっぱいに広がった。


「……冷たくて、美味しいね」


「それはよかった。ゆっくりして行ってくださいね」


 そうやって笑う浅葱くんは、やっぱり優しい。ありがとうと彼に言い、左側に広がる窓の外に、なんとなく視線を投げてみた。

 さっきのにわか雨はやっぱり強くなっていて。その風景とこの曲は、私の記憶を否応なしに呼び覚まそうとする。

 今から十年以上も前。夢と希望に溢れていた、若かりしころの記憶を。



「……そうだ、明子さん。ひとつ訊いてもいいですか? 気になってることがあるんです」


「うん、なに?」


「さっき、この曲をって言ってましたけど、どこかで聴いたことがあるんですか?」


「昔の話だよ。私が音大生だったころにね、一度聴いたことがあるんだ。この曲を」


「音大生……? もしかして明子さん、ついこの前グラミー賞を獲った杜若かきつばた智昭ともあきの知り合いだったりします?」


 ──智昭ともあき。私のかつての恋人の名前。まさか、浅葱くんの口からその名前が出てくるなんて。どうしてと私は驚いて、二の句が継げなくなる。


「いやこれ、その杜若智昭のなんですよ。グラミー獲った記念に出した曲で、出来たてほやほやの。だからこの曲を懐かしいって言えるのは、昔の知り合いだけかなと思って。学生時代にこの曲を書いたって、ライナーノーツにも書いてあったし」


 私と違って音楽を続けていた智昭が、グラミー賞のジャズ部門を獲ったのは、たまたま見たニュースで知っていた。快挙だった。かつての恋人は、遥か遠くの異国で活躍している。

 だからこそ、私は智昭の情報を積極的に取り入れることをしなかった。智昭と別れて、音楽も辞めてしまって。仕事も満足にこなせない小さな自分が、本当に嫌になってくるから。

 私の無言を肯定と捉えたのか、浅葱くんは言葉を続ける。


「凄いな、こんなことってあるんですね。杜若智昭が音大生時代に書いた曲、それを聴いていたのが明子さんだったなんて」


「……ねぇ、浅葱くん。この曲のタイトルって?」


「shower in the blue、だったかな」


 にわか雨の青。このシチュエーションにぴったりなのは何かの皮肉だろうか。

 低音で力強くて。どこまでも青く、そして透明で。透き通るようなもの悲しいブルーノートが印象的な智昭の曲。あの時ピアノの前で、智昭が弾いてくれた時のことを思い出す。

 蓋をしていた記憶が今度こそ鮮明に呼び覚まされる。そうだ、この曲は。智昭が私のために弾いてくれた私だけの曲だった。


 どうしてそれを忘れていたのだろう。どうして。



「明子さん、よかったら話してくれませんか? まだ雨は止みそうにないし、お客さんも明子さんだけだし。もちろん嫌じゃなければ、ですけどね」


 にこやかに笑う浅葱くん。柔らかくて温かくて、まるで陽の光みたいで。凍っていた私の心がそっと融けていく。

 シェケラートの氷が融けて、からりと澄んだ音を奏でた。その音はあの時のブルーノートに、少しだけ似ている気がした。




【続】

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