6月
「好きな人がいるんだ」
三度目のこの言葉は、じめじめした教室の空気の中に溶けて消えた。
「ああ」
簡素な友人の相槌が聞こえづらい。窓の外の雨は、今が梅雨であることを如実に伝えていた。
「てかさ、雨だからって部活なくなっていいのかね?野球部とかは今日も筋トレしてるらしいじゃん。俺らもやるべきじゃねえの」
「さあな、最近は土日も試合があったし、疲れを取れって意味もあるんじゃないか?」
「そんなもんかねえ」
今日は一か月ぶりほどの、平日のオフの日だった。本来は練習の予定だったが、この雨ということで中止。直近の大会の結果もあって部活へのやる気が高まっていた俺にとっては、肩透かしな展開だった。
「あーあ、梅雨ってのは、どうしてこうも憂鬱なのかな」
「俺は雨の音が好きだがな。今日のように土砂降りだと、流石に辟易とするが」
「だよなあ、梅雨明けが待ち遠しいや」
「ああ、早く終わってほしいな」
何気ない会話が続く。いつも通り友人は手元の文庫本に夢中だが、話してくれるだけでいいや。
「すぐに話を変えていたが、お前の恋は今どんな感じだ?」
なんとなく気恥ずかしくなって避けた話題を、掘り返された。いや、自分から振った話題だが。
「変わりねえよ。想いを告げられたわけでもないし、何らかのイベントがあったわけでもない、かといって想いが冷めていってるわけでもない。一か月前と何の変りもない」
変わりない、と強調して何度も言う。なんだか肌の表面が熱くなるような、恥ずかしさでいっぱいになった。
「ハ、じゃあ、今日は何も話すことがないな」
「おいおい、そんなつれないこと言うな。楽しく話そうぜ~」
なんて、何度やったかわからないほどのくだらない雑談が、やさぐれた俺の気分を癒す。俺の恋という新しいネタができても、関係自体は昔からと変わらない
ふと、友人の顔に見惚れている自分に気付いた。別にそんな気はなかったのだが、特別見るようなものもなく、たまたま視線の先に友人がいたようだ。友人自身は変わらず本を読み続けているから気付いていないだろうが、盗み見ているようで変な興奮を覚えた。
くっきりとした目鼻立ちやすっきりした顎のライン、綺麗な形の眉。やはり、美形という言葉が似合う。学年でも一二を争う女子人気にも納得だ。
でも。
『お前はそれで満足か?俺はこんなものじゃ納得できない』
『与えられただけのものじゃダメなんだ。俺は、俺が努力で手にした、俺自身で戦いたい』
いつかのこいつの言葉が思い出される。それまでは同じクラスで同じ部活なだけだったこいつを、初めて友人と呼びだした日。あの日は確か、一年前で、ちょうど今日のような雨の日だった。
「……、お前は強いな」
不意によみがえった記憶が俺の口を滑らかにしたのか、脈絡のないつぶやきがひとりでに口から出た。
友人は一瞬不思議そうにしたが、「まあな」とだけ返してきた。恐らく、前の大会のことを言ってるのだと思ったのだろう。別に事細かに話す気もないから、なんとなく流す。
湿度の高い熱気が、いやに纏わりつく。夏服が湿っているのは、雨のせいか汗のせいか。
「ん、読み終わってしまった」
「お、そうか」
友人が名残惜しそうにつぶやいた。
「その本は、前読んでいたのと違うのか。面白かったか?」
「ああ、この本はミステリだがな、クライマックスは手に汗握る展開で面白かったぞ」
「あっそ、俺には多分わからねえだろうな」
そうやって話していたが、友人は一向に本を閉じなかった。
「おいおい、読み終わったんじゃないのか?」
「終わったは終わったが……。作者のあとがきを読んだり、トリックについて考察したり、伏線を読み直したり、読み終わってからもまだまだ読むところがあるんだよ」
「へえ、読書人のやることはわからねえな」
「俺も、暇なときじゃないとこんな贅沢な読み方はできないがな」
「俺との時間は暇ってか」
ハハハ、と二人で笑った。
偶然教室の前を通った文化部の生徒が、珍しそうにこちらを見ていた。
「ああ、そうか。成程」
「なんかあったか?」
何事か呟いていた友人の様子が気になり、声を掛けると驚かれた。
「あ、声に出してしまっていたか。いや、エピローグでいつの間にか結婚していた男女がいたからな。そんな描写がなかったような気がしていたから不思議だったんだが、読み直してみると行間に思いあう気持ちがよく表れていたんだ」
「行間に表れるって、そんなの描写の内に入らねえんじゃねえの」
目の前の友人は実に楽しそうに語っているが、本を読まない者としては中々賛同できそうにない話だった。ただ、友人の好奇の目が、こちらに向きそうな気がして嫌な予感がする。
「お前はどうなんだ?」
案の定だった。
「どうって、何がだよ」
「言葉にはならなくても、何かこう、行動の中に思いを込めてしまうとか、相手の何気ない動きを深読みしてしまうとか」
日常の中で行間を読むほど、俺は頭を使って生きてない。思ったことはすぐに口にするし、行動の中に意味を持たせるほどお洒落なことはできない。
こいつは、普段の生活でもそうやって生きているのだろうか。言葉にはできない思いをそれでも誰かに伝えようと動いたり、他人の動作一つ一つに意味を見いだそうとしたり。俺と馬鹿みたいに話している時の様子からすると考えにくいが、あの日の叫びを思い出すと不自然なことでもない。こいつはきっと、人に伝える言葉を信じていないのだろう。届かなかったから。
なんて、少しセンチメンタルに考え事をしていたら。
「つまらないな」
そんな声が聞こえた。
「何がつまらないんだよ」
考えがまとまらないうちに言葉だけが先に出る。
「何がって、お前は話聞いてなかったのか」
少し非難するように、友人はそう言った。
「お前のその生き方だよ。言葉にしないような感情も行動の中に入れてしまうような、そういうことをしないんだろう。それはやっぱりつまらない。伝わっても伝わらなくてもいい、他人を思いやる気持ちを込めた行動を美しいと思わないか」
手の中の文章から目を離さないまま、俺の友人はため息をついた。どうも、俺の話が気に食わなかったらしい。
「そうは言っても、まぁ、難しいだろう。言葉にしない行動ね。そんなもの、ア……」
「何かあったか?」
俺はその時、急に普段の授業のことを思い出した。俺が先生の話に飽きて、視線を泳がせているといつも最後はあの人の下へ行く。そういった時、ほとんどの場合はこちらから眺めるだけだが、時たま目が合うと軽く合図をしてくれる。それは微笑だったり手を振ったり何かのジェスチャーだったり、時と場合によってだいぶ違うが、気づいてくれさえすればいつも律儀に返してくれる。そこには多分、特別の意味は無いのだろうが、俺を特別な気分にしてくれる。
「こーゆーので満足か?」
なんとなく思いついたことを、手短に伝えた。それが友人の趣味に合うのか俺にはわからなかったが、まぁ話をつなぐ程度には充分だろう。
「意図していたものと違う気がするが、それはそれで可愛らしくて良い話じゃないか。高校生のするような恋愛とは違う気がするが」
友人は楽しそうにはしていたが、意地の悪い笑い方もしていた。そもそもこちらの一方通行の思いなのだから、そうやって恋愛と言われるのも何か違ったような感じがする。
「うるさいな」
そう短く返した。
BGMの雨音が小さくなった気がした。窓に目を向けると、雨が止んでいた。ただ曇天は相変わらずで、今にも降りそうな雰囲気だった。
「今だけ晴れてるのかな」
そう独りごちた。友人の耳には届かない。
「帰るか」
今度は少し大きく、そう言った。友人もようやく反応する。
「そうだな」
手元の本も、ようやくバタンと閉じられた。
じめじめした空気は変わらないはずだが、少しだけ爽やかになったように感じた。
六月の雲が、何かを遮るように暗く重く空を覆っていた。
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