第一章 思い草 二

「――おい、また昼寝か? 家庭教師に小言を言われるのは私なのだぞ」

 枝葉が夏の風に擦れる音が心地よかった。木漏れ日と一緒に、兄の小言が降ってきた。

 私は起き上がって、懐かしい兄の顔を見返す。

「兄上? 何で……。俺はさっきまで、白鷺に会って……」

 見渡すと、懐かしい庭の景色が広がっていた。池の端の木陰。よく私が昼寝をしていた場所だ。

「寝ぼけているのか? 仕方のない奴だな」

 呆れたように笑う兄の顔が眩しい。今まで悪夢でも見ていたかのようで、ざわついていた心が落ち着いていく。懐かしさといとおしさで、胸が焦がれるように痛んだ。

「まったく、甘やかされてばかりのお前も、そろそろ父上に叱られるんじゃないのか?」

 年がひとつしか違わない兄は、家族というよりも友人のような存在で、対等にものを言い合える仲だった。近くに年の近い友人があまりいないこともあって、小さいときから兄とはいつも一緒だった。

 兄は誠実で寛容な人だった。いつも穏やかで、怒ったところを見たことがない。怠け者で奔放な私とは違い、生真面目で実直な人だった。兄は家を継ぐ長子に相応しい人柄だ。自分はこの力でもって、兄の助けになろう。ずっとそう思っていたし、それが私の生きる意味だと信じていた。

「怠けているわりには、私より学問ができるのだから大した奴だ。父上も、お前のことを褒めていたぞ」

 兄は笑いながら私の頭を乱暴に撫で回した。

「やめてくれ。もう子供じゃないんだぞ」

「ははは、お前はいつまで経っても子供だ。私の弟だよ」

 だが私は、兄に弟扱いされるのが嫌いではなかった。

「そういえば兄上、俺は今から学校にいる友人に会ってくる。鍛錬に付き合うのを頼まれているのだ」

 兄は困ったような顔をして肩を竦めた。

「やれやれ、昼寝をしたりあちこちに行ったり、仕方のない奴だ。まあ、お前は私と違って文武に優れているから、研鑽もよかろう」

「ああ、では行ってくる」

 私はいつも抜け出すのに使っている木を登って、塀を飛び越える。一度振り返ると、兄が寂しそうに笑って私を見送っている。

 私は、ずっとこんな暮らしが続くものだと信じていた。

 ――だが、私は浅はかだったのだ。

 学校は官吏や軍人を目指す者が集う。私はたびたび学校へ行って、鍛錬をする学生たちに頼んで稽古をつけてもらっていた。初めは奇異な目で見られていたのだが、私の剣の扱いが上達するにつれ、学生たちは私を認めてくれるようになった。

 学校の訓練場は敷地が広い。現在は休憩時間だが、数人が竹刀を振って鍛錬を続けていた。訓練場に忍び込むと、数人が私に気づいて駆け寄ってくる。

「また来てくれたんだな!」

「お前は腕がいいから、いい鍛錬になるんだ」

 ひとりが私に竹刀を差し出した。私はそれを受け取って彼の後ろに続く。彼らは皆裏表なく私に接してくれる。私も身分を気にすることなく過ごすことができるから、ここへ来るととても気が楽だ。

 向かい合って竹刀を構え、しばし打ち合った。

 終われば別の者と手合わせをして、終わればまた別の者。数人と続けて手合わせした。実力は拮抗していて、勝敗は半々といったところだ。彼らは皆成績優秀で、将来有望な士官候補生たちだ。彼らと互角に打ち合えるということで、学生たちは皆私に様々な視線を寄越してくる。尊敬、憧憬、嫉妬、諦観――。

 だが私は他人の視線を気にすることはしない。自分のやりたいことを突き進め、研鑽する。今までだってそうしてきた。

 鍛錬を終え、しばし彼らと休んだ。訓練場の隅にある芝生に各々腰を下ろしながら、汗を拭い水を飲む。ひと息つくと、彼らは親しげに口を開く。

「本当にお前強いな。俺たちより学ぶのが遅いのに、すっかり並ばれちまったよ」

「そうそう、この前相談したやつ、お前の言う通りにしたら何とかなったんだ」

「お前には助けられてばかりだ。また何かあったら頼むよ」

「ああ、俺でよければいくらでも力になる」

 彼らはこんな怠け者で不真面目な私を認め、頼ってくれる。

 彼らの力になれることは素直に嬉しかった。

「なあ、兄君よりお前の方が跡継ぎに向いているんじゃないか?」

「それもそうだな。お前になら俺たちみんなついていくぜ」

 彼らの言葉に、つい眉を顰めた。彼らは私を慕ってそう言ってくれている。率直な言い方に裏表はない。だが、私には好ましいことではない。

「馬鹿なことを言うな。家を継ぐのは兄上だ」

 私は次男で、家を継ぐのは長子だ。

 私はただ、兄の助けになれるよう、自分にできることをやるだけだ。

「その、悪かったよ」

「お前があんまり何でもできるから、調子乗っただけだよ」

 周囲は取り成すように言葉を並べ立てた。

 兄は思慮深く、仕事のために身を粉にできる人だ。温厚で聡明な兄を私は尊敬していた。奔放で怠け者な私なんかが、兄に敵うはずもない。兄こそが跡を継ぎ、人の上に立つに相応しいのだ。

 ――私はただ、今あるものがそのままであればいいと願っていただけだ。

 家族がいて、好きなことをする自分がいて、そんな自分を慕ってくれる友人がいる、平和な日常。

 それさえあれば、それだけでよかったのだ。

 私は家へ帰る。真面目な父や母、優しい兄が待っている家へ、帰るのだ。私は町を駆けた。いつものように塀を乗り越えて家の中に入り込み、自室への道を辿った。

「やっと帰ってきたのか」

 自室の扉を開けるところで、穏やかな兄の声が横から投げかけられた。

 廊下に立つ、いつも通りの兄の姿。

「兄上」

 兄が私に笑顔を向けながら近づいてくる。

 ――この先は、駄目だ。

 ――見たくない。

 見たくないのに、情景はこのまま先へと流れ続ける。

「剣術も大分、様になってきたのかい」

「ああ。軍人志望の奴らにだって、負けないくらいだ」

「まったく、お前というやつは……」

 兄の穏やかな笑みが、突如歪んだ。

 兄が近づいてくる。

 懐から取り出した短剣を向けて、私に。

 全身が凍りつくのを感じた。

「父も周りの者も、跡継ぎに相応しいのはお前だという。いつもいつも、どんなに努力しても、その先にはいつもお前が涼しい顔をして待っている! お前がいるだけで、私はいつも笑い物だ! お前のその得意げな顔が、心底私を馬鹿にしている!」

 兄上、と呼ぼうとする唇が戦慄いて、ちっとも言葉にならなかった。目の前にいる兄の、憎悪に満ちた形相が兄に見えず、頭が真っ白になる。

「お前さえいなければ……!」

 兄の力強く握った短剣が、真っ直ぐ私に向かってくる。

 心が凍りついて、全身が冷たかった。それなのに身体を巡る血は熱かった。

 ――死ぬ……!

 そう思ったとき、死ぬのは嫌だと思った。

 身体が先に反応した。兄の短剣を握る手を掴み上げ、短剣を手刀で叩き落す。銀色の短剣が煌めき、地面に落ちた。甲高い残響が沈黙を穿つ。

 その一瞬、考えることも兄に何かを伝えることもできず、私は憎悪に歪められた兄の顔を見ることができなかった。

 よろけた兄が膝をつく。

「……兄上」

「惨めなものだ。私ではなにひとつお前には敵わぬ」

「そんなことはない! 兄上ではないと駄目なのだ! 父の跡を継いで、この地を守るのは……」

「いいや、違わぬ。周囲が望んでいるのは、お前のような――」

 兄は言葉を切って、床に落ちた短剣を素早く拾った。

 私は短剣を兄の手から抜き取ろうと腕を伸ばす。柄に触れるが、兄の方が早かった。

 兄の喉元に、短剣の白い切っ先が吸い込まれていった。

 兄の顔は、いつものような優しい穏やかなものだった。

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