ましろの道
葛野鹿乃子
第一章 思い草 一
今更後には引けない。
見切りのつけられないその思いだけでここまで来た。
苔生した太い木々や岩が、行く手を遮るように立っている。背の高い野草を掻き分け、斜面を越え、道なき道を行く。似たような緑の中を私は進んだ。
あとどれくらい歩けば、目的の場所へ着くのだろう。伝承のみが伝わるだけで、実際にあるのかどうかさえ怪しい。山を彷徨って幾年月になるのか、もうそれすらわからなくなっていた。
それでも諦めきれないのだ。
風は秋の気配を含んで涼しい。枝葉同士が擦れ合う微かな音が森中に波紋した。それらは波のように、遠く、近く、風とともに通り過ぎていく。
その遠ざかっていく音を見送って、私は再び歩き出した。
少し前まで鳴いていた蝉も、鳴き方を忘れたように静かになった。夏の日差しに肌寒い空気が混じり始めているから、初秋なのだろう。森は未だに深い新緑を湛えている。草いきれは濃く、緑と土の匂いはまだ夏のものだった。
広大な森の海をひとりたゆたう。無数の命がひしめく山の中をひとり行く私は、ひどくちっぽけで矮小だ。呑み込まれてしまいそうな不安と、全身を柔らかく包まれるような安堵が、私を満たす。
このまま山に呑まれて消えてしまえたら。
私は安らかに眠れるのだろうか。
しばらく歩くと、小川に差しかかった。
私が目指す場所も川だ。本当にあるのかもわからない、古い言い伝えだけが残っている場所。その川の先へ行くことが私の目的だった。小川に沿って、上流へと向かう。無言で歩き続けた。川は上流へ向かうほど清らかに、冷たく澄みきっていく。
ふと、木々の合間に何かが飛んでいるのを見た。
ゆらゆらと、誘っては遠ざかるように揺れている。
――蝶だ。
紫色の蝶が一羽だけ、ひらひらと飛んでいるのだ。私は憑かれたように蝶を追った。そうしなければならないような気がしたのだ。蝶は私を誘うように遠ざかる。私は小さな紫色を見失わないように、ひた走った。
進んだ先の森の中に、古びた楼閣が立っているのを見つけた。
陽炎か幻ではないか、我が目を疑った。だが、確かに森の中に存在している。こんな深い森の中に建物があるわけない。私は駆け出した。ここがそうなのかもしれない。
以前は鮮やかな朱だったのだろうか。風雨に晒されたせいか塗装が剥げてしまっていて、柱の木目がくっきり見えた。
川はこの楼閣の中を通っている。川の真上に、流れを遮らないように建てられているらしい。この楼閣の奥にある川の源流。きっとそこが私の目指す場所だ。伝承の中にある幻の楼閣を目の前にして、私の全身は浮足立つような高揚に包まれていた。
――鳥が羽ばたく音がした。
音からして、かなり大きな鳥だろう。注意深く周囲を見回すと、翼の主はすぐに見つかった。
真っ白な鷺だ。
楼閣の傍の木の枝に、真っ白な鷺が留まっている。
それは一瞬まばたきをする間に、白い翼を背負った男に変わっていた。
「…………?」
何が起こったのかわからなかった。先程まで白鷺がいた場所に、男がいる。白緑色の衣服をゆるりと纏った姿は人のようだが、ただの人には見えない。
男はこちらを、射るようにじっと見下ろしている。
雪のような銀色の髪と、冷たい銀色の瞳だった。透けるような白い肌に、ほっそりと通った鼻筋と輪郭、薄い口唇。作り物の人形のように整った美形である。それは人工物ではなく、六花のように形が整った――自然のものなのだ。
「……去れ。人が来てよい場所ではない」
男は透き通った声でそう言った。私は声を張る。
「あなたを、死者を看取る神白鷺とお見受けする。これなる楼閣と川は、死者の行く場所へ続くという伝説の地だな?」
白鷺は、眉ひとつ動かさずに私を見下ろしている。なんて冷たい瞳だろう。熱を持たない雪のように、そこにはどんな感情もない。ひどく虚ろで、硝子のように透き通っている。
「……去れ。生者が踏み越えてよい境界ではない」
「承知の上だ。俺はそこへ行かねばならない」
「生者が境界を越えれば、その魂は川の先へと引かれてゆく。そして我がその魂を貰い受ける。決して後戻りはできぬ地ぞ」
「元より戻るところなどない」
そうだ。私にはもう、帰るところがないのだ。
「……死を望むというのか」
白鷺はそう呟くと、翼を広げて楼閣の窓へと飛び移り、その中へと姿を消した。私は後を追う。あの男が真に白鷺ならば、魂を連れていってくれるかもしれない。
楼閣の中へ入った。陽が差さないせいか夜のように暗い。
建物の中のはずなのに、その奥行きが闇に沈んでしまっているせいか閉塞感を感じない。視界がきかない楼内で、川が通り抜けていく涼やかな音が響いている。夏とは思えないほど空気がひんやりしていて、黴のすえた匂いがした。
ぽつ、ぽつと、小さな明かりが灯っていく。それぞれ意匠の異なる灯篭が宙に浮かんで、光を放っている。それらは遥か天まで無数に灯り、星のように煌めいている。
楼の上空に白鷺がいた。白い翼を広げて浮いている。
「――我は白鷺。生と死のあわいを行き来し、死者の魂を送る者。その想いと死を看取り、向こう岸へ渡すが我が役目」
白鷺はそう言いながら、近くの灯篭をひとつ手に取る。
「そなたは何者か」
「俺は……」
私にはもう、名前はない。
血縁も、家も、家族も、すべて捨てて逃げてきた。
世のしらがみを捨て、残されたのはこの命ひとつだけ。
私は、世を捨てたのだ。
「――もう何者でもない」
私は白鷺から視線を逸らした。
「そなたは、何を望む」
「何?」
「望み。願い。欲望。希望。それらが人の生きる道となる。それがなくば、――まさらになる。まさらになれば、魂を貰う」
白鷺の言葉が、闇と灯火の向こうで揺らめいた。
私が、本当に欲しているのは。私の、願いは――。
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