第二章 忘れ草 一

 青い空に鱗雲が浮かんでいる。清々しい秋晴れの日だった。

 私は荷車を引いて、町の往来を練り歩いていた。

 羽織を着込み、白い息を吐きながら重い荷車を引いていく。日中は陽もあるし、動き回っていれば寒さは紛れる。

 町のあちこちに植わっている桜の木も紅葉を始めた。

 秋の空に陽を浴びた紅葉が赤く照り映えて、往来は鮮やかで美しい。もう北の方は山の木々が紅葉しているとも聞いている。町中では遠くて見えないが、北の山々すべてが真っ赤に染まる様子はさぞ雄大で艶やかなのだろう。

 そろそろ、紅葉の盆栽の鉢も仕入れてもいいかもしれない。

 私はそう思いながら、ちらと後ろの荷車の中を見やる。

 萩、女郎花、男郎花、藤袴、菊花、思い草、秋桜、金木犀、吾亦紅、石蕗、千両、尾花、そして忘れ草。紅葉が秋の空を彩る中、荷車の上の秋の花たちはひっそりと小さく花を咲かせている。

「はなー、生花は如何でしょう? 竜胆、山茶花、茶の花、南天、紫苑……。菊花も種類を揃えてございます。秋の花はいかがでしょう?」

 声を張りながら通りを歩いていく。

 それにしても変だ。こんな天気のいい昼間で、往来にまったく人がいないなんて――。妙だとは思ったが、仕事をしっかりしなければと思い気を取り直して進む。

 けれど、人がまったく通りかからない。張った声は虚しく空に響き、胸の奥には薄気味悪さが燻る。よく見慣れた町の風景が、まるで別世界のようだった。暖かな秋の陽はどこかよそよそしく、舞い散る紅葉はもの寂しさを掻き立てる。

 何かがおかしい。そう思いながらも、荷車を引く手と足を止めはしなかった。

 ちょうど目の前を、何かがちらついた。

 ――蝶だ。

 紫色の蝶が、ひらひらと羽を舞わせて飛んでいる。どうして季節外れの蝶が、秋に飛んでいるのだろう。私は魅かれるように、その蝶の後を追った。荷車を引く足を少しだけ早めて、近づいては遠ざかる蝶をひたすら追いかけた。

 古風で立派な邸宅が並んでいる、迷路のような通りを抜けた。

 しばらく進むと、植え込みの垣根へと景色が移り変わった。垣根の中に紅葉の木があり、錦の葉が秋色の木陰を作っていた。その木陰に入ってひと息つき、汗を拭った。秋とはいえ大荷物を引いて歩いていれば汗も掻くし、暑く感じる。

「――花売りさん?」

 落ち着いた少女の声が投げかけられた。

 声がしたのは垣根で囲われた屋敷の方からだ。

 生垣から見渡せるこの屋敷は、周囲の屋敷よりもこじんまりとしていた。菊や紫苑、藤袴が咲く中庭がある。その奥に窓を開けて顔を覗かせる少女がいた。先程の声の主はこの少女だろう。

 少女の顔は日に当てれば透けてしまいそうなほど白く、高級そうな赤い着物をゆったりと纏っていた。濡れたような長い黒髪を一部結い、銀でできた小花の髪飾りを挿している。

 まだ十代半ばくらいだろうか。そのわりには、その年頃の少女たちにはない穏やかさがあった。大人びた落ち着きと、生気の欠けた微笑み。

 少女は再び、か細い声をこちらへ投げかけた。

「……あの、花売りさんでしょう?」

 私は背筋をしゃんと伸ばして彼女と向き合った。

「あ、その、勝手に軒先を借りてすみません! すぐ立ち去ります!」

 小さいとはいえ、この辺りの屋敷は立派だから、ほとんど名家や貴族のものだろう。私が慌てて荷車に手をかけ、走らせようとすると少女の強い制止がかかった。

「待って! 咎めようとしているわけではないの。よかったら、花をいただけませんか」

 私は立ち止まって少女へ顔を向けた。彼女は窓枠に両手をかけ、身を乗り出すようにしていた。

「あ、あの……、わたし、外に出られないんです。どうぞ、庭までいらしてください」

「それは構いませんが、どの花にいたしましょう。今は秋の花が何でも揃っていますよ」

「それでは……、紫苑はありますか?」

「ええ、すぐお包みいたします」

 私は荷車から紫苑の花を数本取って包み、庭へ入った。少女は身を乗り出して花を受け取る。そして窓辺から離れ、代金を持って再び現れた。お金を差し出しながら、少女がはにかむ。

「ああ、さっきみたいに大声出したの、久しぶりでした」

 少女の頬は上気している。よほどの箱入り娘なのだろうか。

「花売りさんは、やっぱり忙しいですか?」

「そうですね。一日中歩き回って花を売るのが仕事ですから」

「あの……、あの……っ」

 少女は両手を胸の前で重ねながら、口を一生懸命ぱくぱくさせている。あまり人と話したことがないのだろうなあと、微笑ましく思う。

「……花売りさんが、お仕事に差し障りがなくって、もしよろしければでいいのですが……」

「はい」

「お、お話のお相手になっていただけませんか?」

「はい……?」

 私はつい小首を傾げるが、少女は勇気を出して言いきったといわんばかりに必死な眼差しで、こちらを見上げていた。

 話を聞いて、私は少女の大体の事情を知った。

 少女の名は雁が音(かりがね)。歳は十六。

 父は役人で、日中は母親と二人で屋敷にいるという。

 雁が音は、裕福な家の娘ならばみんなやっているような稽古事や芝居見物、物見遊山などは一切しておらず、それどころか屋敷から一歩も出ずに暮らしているらしい。

 雁が音は、先例のない病のせいで外に出ず、人とも関わらずにいる。発作が外で突然発現するのが危険との医者の判断らしいが、それを理解はできても納得できるほど、十六歳というのは大人でも子供でもないと思う。

 窓から見えるだけの外。庭から先を見なくなって久しい世界。そんな外への興味が憧れになるのに、時間はかからなかったそうだ。望んでも届かない世界へ焦がれる中現れたのが、普段は見かけない花売りの姿――。

「……それで、手前の話を? ですが、手前は一介の花売り。面白い話なんて、できるかどうか……」

「どんなお話だって、きっと面白く聞けます。どんなお話でもいいんです! お願いします! えっと……」

「ああ、申し遅れました。手前は萱草(かんぞう)と申します」

「萱草さん、どうかお願いできませんか?」

 雁が音は意気込み頭を下げた。

 私は懸命に頭を下げる雁が音の姿に、少しくらい、彼女が喜ぶことをしてあげられればと思ったのだ。仕事は町を一日中歩き回るが、目が回るほど忙しいものではない。

「……わかりました。手前でよろしければ」

 そのとき、ぱっと花開いたような雁が音の笑顔を、私は生涯忘れなかった。

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