第一章 思い草 三

「――もういい! もうやめろッ!」

 私はあらん限りの力で叫び散らしていた。

 目の前には忌まわしい過去の情景ではなく、古ぼけた楼閣の中でいくつもの灯籠が灯る元の場所に戻っていた。

 白鷺が私の前へと降りてくる。純白の翼を広げ、そして地面に軽やかに足をつけた。

「……だから、捨てたのか」

「……そうだ」

 短剣で喉をついて、兄は私の目の前で死んだ。

 ――何故兄はあのとき死を選んだ?

 今でも私には解らない。

 突然血に染まった視界。目の前には喉を血に染めた兄が倒れていて、光を失った虚ろな瞳で私を見上げていた。そして私の手は、飛び散った兄の血で濡れていた。べったりとした生温かい血の感触だった。飛び散った血の赤と、兄の髪の青が混ざり合って目眩がした。

 私はそのまま、すべてから逃げ出した。

 その場から、家から、家族から、罪から、責任から、生きることから、自分から。

 何もかも捨ててここに来た。

 最後に残ったこの命を、捨てるために。

「俺が兄を殺した」

 私の存在が、私が私でいることが、私が生きていることが、兄を死へ追いやった。

「――兄の心の内を、知っていたのにか」

「……そうだ。知っていた。全部知っていた! 私を見る兄上の目が、本当は冷たかったことに! ずっと見て見ぬ振りをしていた! 疎まれたままでも俺はよかったから! そのままでも十分だったのだ!」

 私はただ、目の前にあるものを大切にしたかっただけなのに。

 好きに過ごして、父や兄に叱られたり友人と遊んだりして、ささやかな毎日を大切にできれば、他には何もいらなかった。

 それの何がいけなかったのだろう。

 学問や鍛錬に打ち込むのは楽しかったし、誰かを助け、自分の力が周囲の役に立っていると実感することも嬉しかった。兄にどう思われていようと、兄を自分の才能で助けていれば、いつか兄から好かれるかもしれないと思っていた。

 私は、浅はかだった。

 兄のことを、何も考えていなかった。兄がどんな気持ちで過ごし、どんな目で私を見ていたのか。何も考えず、自分のことばかりだった。自分の浅はかさや傲慢さが、兄の命を奪った。

「そなたは、何を望む」

「――何もいらぬ」

 もう欲しいものなど何もない。

 手を伸ばして、手に入ったのは兄を死に追いやったという事実とこの罪だけだ。

 この罪と過去を抱いて彷徨い生きるくらいなら、いっそ。

「罪を雪ぎ、何も持たぬまさらな魂となりたい。このまま生きるのは、もう……」

 白鷺の瞳が細められる。細められた瞳には、確かに不愉快の色が篭っていた。

「帰れ、人間。在るべき場所へ。そなたが還るべき場所はここではない」

「何を言う! 還る生命を迎え導くのが白鷺の役目ではないか。何故俺を導かない!」

「そなたの天命は尽きておらぬ。まさらになりきれぬ魂を川向こうへ送ることはせぬ。雪げぬ罪を抱いて渡れる場所ではないぞ。――甘えるな」

 白鷺は白い指をこちらに突きつけた。

「――まこと、まさらになりたくば、生ききってみせよ」

 一瞬のうちに、眼前に水が溢れた。水は奔流となって私を押し流していく。一面の深い青に溺れて、白鷺の姿が遠ざかっていく。水に溶けるように、私は落ちていく。

 ――死ぬのだろうか。

 あんなに焦がれていたはずなのに、息が苦しい。遠ざかっていく水面に心が焦る。手を伸ばしても、もう何にも届くはずがないのに。

 唐突に浮上した。

 水面から勢いよく顔を出す。焦がれていた空気を思いきり吸い込んだ。何度も深呼吸をすると、苦しかった息がようやく落ち着いてきた。

 森の小川の中に私はいた。川の中から出ると、途端に暑気が濡れた身体に纏わりついてきた。

 私がいたはずの楼閣も、白鷺の姿もない。

「……戻されたのか?」

 どうやっても連れていくことはできないという、白鷺の答えのように思えた。

 私はまだ生きている。

「……これから、どうすればいい?」

 あのとき、兄は何故最期に笑ったのだろう。

 ――生ききってみせよ。

 生きて、生ききって、その最期のときにならなければ、人は死者の世界へ行くことはできない。

 命ある限り、人は生きねばならない。この罪を抱いたまま。苦しみながら進まなければならない。それが贖いの道か、それとも。

「――この世は、やはり憂世だ」

 私は歩き出した。

 どこへ行こう。森を彷徨うか。それとも家へ帰るか。

 ここではないどこかへ、歩かなければ。

 生きねばならない。

 私は、再び森を彷徨い始めた。

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