第二章 忘れ草 二

 私は、町で話題になっている芝居や本の内容を語ることは、よく知らないのでできない。事件になるような話題も平穏な町では特にないから、私の話は必然的に身の回りのことになってしまう。

 私は自分の生活の中であったことを、毎日雁が音の元を訪れ、花を売り、語ることになった。

 私の親兄弟は既に亡く、妻子もいないため独りで身軽な生活をしていること。朝早くに森の傍で花を仕入れ、毎日下駄をすり減らして町中を練り歩くこと。

 他人から見れば何の変哲もない私の日常を、雁が音は興味深そうに聞いた。

 夏の風に、波のようにそよぐ青い田んぼがある北の里。人の溢れる町の様子。春になると町中に花吹雪を舞わせる白桜。どこに行っても音楽が鳴る繁華街は、楽士や遊女、絵師や芸人が多く、鮮やかな色彩に溢れていること。どこまでも海が見渡せる港には猫が多く、珍しいものが並ぶ西の市が賑わうこと。

 北山がみんな紅葉していることとか、どの蕎麦屋が美味しいとか、近所の奥さんに新しい子供が生まれたとか、そんな他愛のない話もした。

 花の配達が遅れそうだったときの話は、臨場感たっぷりに、少しだけ誇張して語った。雁が音はその場にいるかのように緊張感を持った面持ちで聞き入り、可笑しい話には声を上げて笑った。

 私は雁が音に語るたび、自分の日常を再確認した。

 今まで当たり前だった日常。花を売り歩くだけの、嫌いではないが平凡な自分の人生。雁が音に話すことで、意外にも自分の人生は豊かに彩られていることに私は気づいた。毎日歩き続けることが疲れることがあったのに、今は羽のようにあちこち歩き回ることができた。ありふれたものがみんな、素晴らしいものだと思えるようになったのだ。

 私は、次は雁が音にどんな話をしようか楽しみにするようになっていた。自分の身に起こったことを思い返したり、何気ない毎日も注意深く観察したりしていた。

「――近所の魚屋の魚を盗んだ猫、店主はまたあいつか、ぼやいていたんですが。前に見かけたとき、お腹が大きくなっていて」

「それじゃあ、もうすぐ子供が生まれるのね。すごいです」

 雁が音は手を叩いて顔を綻ばせた。彼女は、そうやって私の話ひとつひとつを聞いては噛みしめるように聞いてくれた。

 だが、雁が音の元を訪れるようになって数日、私は奇妙なことに気づいた。雁が音は病のために屋敷で療養しているのだが、雁が音が臥せっているところは一度も見たことがない。知らなければ病気などと誰も思わないだろう。それほど雁が音の様子は溌剌としていて、身体にはどこも悪いところがなさそうなのだ。

 彼女はどこが悪いのだろう。

 私が彼女の病について、詳しい事情を知ったのは、その翌日のことだった。

 私は今朝方見かけた朗報を、どうやって雁が音に話そうか考えながら、雁が音の屋敷へ向かった。

「萱草さん! いらっしゃい!」

 雁が音は私の話を楽しみにしてくれているようで、楽しそうに出迎えてくれる。私の仕入れる紫苑の花も彼女は毎日買ってくれていた。

 娘が喜んでいるのもあってか、彼女の母も私を快く出迎えては、緑茶と菓子を用意してくれるようになった。町中を歩く私にはとてもありがたいもてなしである。

「今日はどんなお話をしてくれるんですか?」

「朗報があるんですよ、お嬢さん。昨日お話しした、近所に棲んでいる野良猫の話の続きです」

 近所の魚屋で魚を盗んだ野良猫の話は昨日話したばかりだ。大きなお腹をしていたその猫が、生まれたばかりの子猫を抱えているのを今朝見たのだ。

 雁が音はきょとんと大きな目を瞬かせた。

「……野良猫の、お話……?」

 雁が音の首が小さく傾いだ。

 私はえ、と喉を鳴らして雁が音を見返した。

 冗談を言っているのではないとわかる。彼女はしばし戸惑い、やがて顔を青ざめさせて、しまった、という顔をした。

 雁が音は突然怯えたような表情で震える唇を噛んだ。

「ごめんなさい……!」

 肩を縮ませながら何度も頭を下げる彼女を前に、私はどうしていいかわからなかった。私はとりあえず彼女を必死に宥めた。大丈夫ですよ、と繰り返していると、屋敷から母親が飛んできた。

 母親は何があったのかすぐに察したようで、雁が音を屋敷内へ連れていく。戸惑うままの私の前に、老いた母親が現れて、頭を下げた。

「せっかくおいでいただいたのに、無作法をいたしまして……」

「そんなことは一向に構いません。それより、お嬢さんは大丈夫なのですか? 一体何が……」

 何故雁が音の様子が変わったのか、私はそれが気になって仕方なかった。いつも明るい彼女があんなふうに取り乱すなんて。自分は何かひどいことをしてしまったのではないかと思ったのだ。

「萱草殿のせいではございません」

 母親は私の心情を見透かすように、まず言い置いた。

「あの子の、病に関係があることです。今まで黙っておりましたが、すべて、お話しましょう」

 隠し立てしても詮のないことながらも、変に気を遣われたりするのが嫌だと、雁が音は私に病のことを言わないようにしていたのだという。

「……あの子は、子供の頃からそうでしたが、物忘れの激しい子でした。ただ忘れるだけならまだしも、とても忘れられないようなことまで忘れてしまうのです」

 雁が音には、子供の頃とても可愛がっていた小鳥がいたという。その小鳥が寿命で死んだときは食事もせずに泣き暮らすほどで、どれほど悲しかったのか周囲の人間も感じるほどだったという。

 そんな雁が音が、数日後には小鳥のことを忘れた。

 小鳥の名前、可愛がっていたこと、何もかもを。空っぽの鳥籠を見て「これいつから家にあったのかしら」と言い、驚いた両親が小鳥のことを訊くと、雁が音は小鳥に関する記憶すべてを失くしていた。彼女自身が庭に作った小鳥の墓を見せても、「こんなもの作ってない」と言うばかり。

 おかしいことはそれだけではなかった。長年家に奉公していた者たちの顔と名前を突然忘れたり、ずっと心待ちにしていた父が帰ってくる日のことを唐突に忘れてしまったり、そうしたいくつもの引っかかりを経て、両親も、彼女自身もようやくおかしいと考えたらしい。だが、医師にかかっても先例のない病で詳細も治療法もわからず仕舞いだった。

 ――少しずつ記憶を失くし続ける病。

 そんなことが本当に起こるのか、そんな病があるのか。雁が音の症状は、そう考えないと理解できないことが多いという。

 知っていること、覚えてきたこと、大切な思い出、大切な人との時間。そうしたことが抜け落ちていく病。雁が音が抱えているのは、治しようもなく、理解も得にくい奇妙な病だった。

 雁が音も最初のうちは、何も忘れないよう大切なことを反復したり、帳面に書き綴ったり、新しいことをどんどん覚えようとしたりと、自分の奇妙な体質と闘っていたらしい。

 だがどれだけできることをしても、どうでもいいことも大切なものも、みんな次々と抜け落ちていった。病はどんどんひどくなり、外出中に記憶を失うようにもなった。今まで自分が何をしていたのか、何故そこにいるのか記憶がない。それが怖くなって、雁が音は外に出ることをやめてしまった。彼女の中に巣食う恐れが、外へ足を向けることをさせないのだ。

 始めこそ病と闘うことに積極的だった雁が音も、次第に疲れ、あらゆることに興味を持つことすらなくなってしまった。

 ――どうせいつか忘れてしまうから。

 いつの頃からかそれが彼女の口癖になっていたそうだ。

 疲れ、諦めた。勇気を出してもがんばっても、いつかは無駄になる。無為になる。それが空しくて、何をするにもすっかり消極的になっていった。

 屋敷でぼんやり過ごすだけの日々の中、普段は見ない花をいっぱいに載せた荷車が庭の前に停まっていることに気づいたという。

 そして彼女は数年ぶりに、自ら行動を起こした。

 私の話は、彼女の中で忘れ去られた心をくすぐるものだった。毎日近所の人やお客との中で交わされる会話や、せわしなく働くことで得られる充実した生活。

 雁が音は私と一緒に人と話したり、頼まれた花を走って配達したりした。私と一緒に思いきり声を上げて笑ったり、怒ったりした。だが、彼女が感じたこと、味わったことを、病はみんな奪っていく。

「いつかは忘れてしまうだろうと、思ってはいたはずです。でも、よほど楽しかったのでしょうねえ。病のこと、少しでも忘れて笑っているあの子を見たのは、本当に久しぶりでした」

 母親は、「本当に」と噛みしめるように言った。

「どうか責めないでやっていただけませんか。あの子も、今は心の整理がつけられないのだと思います」

「そんなことはよいのですが……」

「遅かれ早かれ、きっとあの物忘れの病は、萱草殿のお話を消してしまうだろうと思っていました。それより、もし萱草殿がご迷惑に思われるのでしたら、これからは無理においでいただかなくても結構ですよ」

「それは、手前が迷惑になるからでしょうか?」

「とんでもない。ただ、あの子の病のことを知った今、あの子と関わることは、あの子が抱えている荷を負うことになります。萱草殿には萱草殿の生活があります。薄情なことになろうと、それは仕方がないこと。萱草殿がご負担に思われるのなら、無理してここへ来る必要はないのです」

 共感のない視線をあの子は敏感に感じ取りますからと、雁が音の母は言った。

 それはつまり、同情や憐れみでこの先雁が音の元へ通い続けても、いつかは私の方が支えることに疲れ、そのことが雁が音をも傷つけることになりかねない、ということだろう。それならいっそ、薄情でも雁が音の元へはもう来るなという、私へ向けられた母の優しさと警告なのだ。

 私はまた来ます、とすぐに答えることができなかった。

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