第二章 忘れ草 三
いくつもの話を雁が音に話して聞かせても、いつかは忘れられるときがくる。それを知って、私は今まで通り話をすることができるだろうか。今は大丈夫でも、いつか雁が音に忘れられることに疲れる日が来ないといえるだろうか。もしそんな私の思いが雁が音に伝わってしまったら?
自分の何気ない言動が、いつ雁が音を傷つけるかわからない。
それなら、何事もなかったかのようにもうここへは来ない方がいいのだろうか。冷たくとも見捨てるのか。慣れない憐れみや親しみで雁が音と関わり続けるのか。
私は何も決められないまま、母親に送り出され仕事に戻った。
その日の仕事が終わり、夜を過ごし朝になっても、私はずっと考えていた。そうして花を積んだ荷車を引いて、黄金色の太陽が一番強くなる頃になっても、心は決まらなかった。
いつもの柳並木の下から、小道へ入る。雁が音の屋敷の前の生垣に差しかかって、私は止まった。
あの窓辺に、いつものように雁が音はいた。
彼女の視線が、目ざとく私を捉える。無視することもできず、私はいつもの場所へ荷車を引く。
「……来て、くれたんですね」
「はい。花とお話を届けに」
私は、できるだけいつも通りに応じた。
「……知ったんですよね。わたしの病のこと」
「お嬢さんの母上に教えていただきました。けれど手前には、お嬢さんを見捨てるなんてことは……」
やっぱりできない。彼女を目の前にして思う。無駄になろうと構うものか。自分の素晴らしい生活に気づかせてくれた雁が音を、少しでも喜ばせてやりたい。そう思ったっていいはずだ。
「……お話、まだしてくれるんですか?」
おそるおそる尋ねた彼女の言葉に、私ははっきりと頷いた。
雁が音は瞳を潤ませながら、困ったように眉を下げた。
「――もう、いいんですよ」
私は面食らった。諦観に満ちた声と、暗く俯く瞳。
「どうしたんですか、お嬢さん」
「いつか、萱草さんのことを忘れちゃうの、いやです。それを思うと、眠るのが怖い。次の日が来るのが怖い。今が大丈夫でも、明日がわからない。それがもう、耐えられそうにありません。わたしからお願いしておきながら、身勝手なことだと承知しております。ですがどうか、もうわたしのことは忘れてくれませんか」
白い両手で顔を覆う雁が音。その様子がとても痛々しい。
萱草は、「きっと忘れません。大丈夫ですよ」と言おうとして、けれど口を噤んだ。こんなときに、気休めのような言葉を発しても逆に彼女を傷つけるだけではないか。憐れみを持って接して、理解を示したように相槌を打つことなど、彼女は微塵も望んでいないだろう。
かける言葉が思い当たらなかった。なんて言えば雁が音を勇気づけることができるだろう。彼女を救うなんてことは大仰すぎて、とても私にはできないのだけれど、少しでも彼女の助けになりたかった。
けれど、私にできることは、もう残されていない。
雁が音に礼を言われ、窓を閉められ、私はどうすることもできずに屋敷を辞した。
翌日から、雁が音の姿を窓辺に見つけることはできなかった。
――もう、いいんです。
昨日の諦観に満ちた声と、その表情が思い出される。
次の日も、その次の日も、様子を窺いに屋敷へ行ったが、雁が音が姿を見せることはなかった。
本当にこのままでいいのだろうか。心のどこかでこのままは嫌だと叫ぶ自分がいる。だが、病の彼女を遠巻きにしておきたい自分もそこには一緒に潜んでいて、自己嫌悪に襲われた。
そうした日々を繰り返して、気がつけば紅葉の時季も終わりに差しかかっていた。私はいつものように雁が音の屋敷へ行く。もういないと知りながら様子を窺う。こうして未練がましく通って、彼女がいたら自分はどうしたいのだろう。
「……!」
あの窓辺に雁が音が座って庭を見ている。
諦めを含んだ穏やかな表情は、眩しそうに、ぼんやりと中庭を見つめているようだった。
私は荷車を引いて、雁が音の屋敷を横切った。
とにかくもう一度話がしたいと思った。訪ねて、どうするかはそれから考えよう。荷車を引きながらちらと雁が音の方を見ると、彼女もこちらを見ていた。
「待って!」
雁が音の声が私を引き留めた。
私は顔を上げて雁が音の方を振り返った。
「――あの、花売りさんでしょう?」
雁が音は窓枠に乗り出すようにしてこちらを見つめている。頬を上気させながら微笑んでいる。私は立ち止まって呆然と彼女へ顔を向けていた。冷たい汗が一筋、背筋に流れた。
どこからか、紅葉がはらりと目の前を落ちていった。頭の中が揺らめく。自分が立っているのか、水の中にいるのかわからなくなるみたいに、ぐらりとした。
私はしばし呆然として、乾いた口から声を発する。
「…………よろしければ、花でもいかがでしょう」
「いいんですか? お願いします」
「……お包み、いたします」
私は紫苑の花を数本取って包み、そのまま庭を突っ切って、窓辺にいる雁が音の元へ向かった。雁が音は身を乗り出して、そのまま花を受け取った。
「紫苑ですね。とても綺麗」
そして窓辺から離れてしばし、代金を持って再び現れた。
お金を差し出しながら、雁が音が小首を傾げた。
「でも、どうして紫苑の花を?」
「……お嬢さんには、紫苑が似合うと思ったもので」
「このお花、好きだから嬉しいです。たくさん部屋に飾ってあって。何故なのか、理由は思い出せないんですけど」
雁が音はまだ頬が上気している。私はあのとき、よほどの箱入り娘なのだろうと勝手に思っていた。
「花売りさん。花売りさんは、やっぱり忙しいですか?」
「そうですね。一日中歩き回って花を売るのが仕事ですから」
「あの……」
娘は両手を胸の前で重ねながら、口を一生懸命ぱくぱくさせている。あまり人と話したことがないのだ。病のせいで屋敷に篭り、そして人との触れ合いすら少しずつ忘れていく彼女は、人と話した記憶をほとんど持っていないのだろう。
今はその姿が、とても痛ましい。
「それでは、手前は、これで……」
私は礼をして、その場を後にした。
背後に雁が音が何か言いたげな気配を感じたが、それを振り切るように庭を出た。背中に感じる視線をそのままに、私は荷車を引いて雁が音の屋敷を遠ざかっていった。
――何もかも、消えてなくなってしまう。
雁が音と私が過ごしたことも、彼女が感じたものも見聞きしたものも、掬った水が指の隙間から零れ落ちるように、すべてなかったことになるのだ。
何もしてやれないのだ。慰めることも、力になることも、笑わせることも。
それは自分が忘れられることよりも、虚しかった。
雁が音はこれからどうなるのだろう。
数少ない記憶さえ、いずれすべて抜け落ちて、零になってしまうのだろうか。
私には、花を売ることしかできないのに。
足を前へ進めるごとに、視界がぼけていった。喉が鳴る。
両目からぼろぼろと涙が零れた。唇を強く噛みながら歩いた。
涙は止まることなく溢れて、けれど雁が音の屋敷から遠ざかる以外に、私にできることはなかった。
「――それがそなたの記憶。死した今も忘れえぬものか」
男のような、女のような、どちらともつかない透き通った声音がした。
「老いさらばえ、死して後も残す未練」
いくつもの魂を周りに纏わせ、白い男が魂だけの存在となった私へ語りかける。
銀色の髪と瞳を持つ、人形のように整った顔立ちの男だった。その諦めたような落ち着きや表情は、何故か彼女を思い出させた。
「それでも、死したる者はすみやかに、生者とは別たれなければならぬ」
私の魂が死者の行く場所へと引っ張られていく。
「冬枯れの、枯れにし人は春に戻らず……」
私の生涯で忘れられない、雁が音との出会いと別れ。
彼女との思い出や苦い想いも、白鷺に連れて導かれるうちに。
まさらになって消えた。
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