第三章 道の草 一
色見草は色を移ろい、やがて葉を落とした。
大地は既に辺りを覆う雪に隠れた。豊かな緑を蓄える山も、今は冬木群となり冬を耐えている。
熊の毛皮を纏い、私はこの北山を練り歩いていた。
背に負う籠には、仕留めた山鳥や兎の重みがある。私は弓を手に、更なる獲物を探す。
今日明日食べられる分は既に獲ったが、冬の備蓄はあって困ることはない。日が落ちるまでにもう少し時間がある。
里は、北の山の恩恵に依りかかっているところも多い。
北山はすべてを与えもするし、すべてを奪いもする。
冬は殊更厳しい。冷たく深い雪に覆われる。熟練の杣人も猟師も、冬の北山に踏み入るときは慎重になる。それでも、命を落とす者は後を絶たないのだ。
山は、恐ろしい場所だ。
木があり、川があり、土がある。そこに虫や、鳥や禽獣がいる。あらゆる生命が集まっていて、完結しているのだ。山はそれひとつで循環し、あらゆる生命を抱き込んだまま存在し続ける。ひとつの大きな生命のように。
里は、山や川なしでは存在できないというのに。
この大きな生き物は冬に眠りまた春に目覚める。時が巡っても変わらずにそこに在り続ける。
人は、ただ存在するだけでは生きられないというのに。
山にとって人は異物だ。異物というものは、排除されるか、そこに同化することしかできない。
人はどちらも選べない。必要なものを山から少しだけ分けてもらって、人はようやく生きていくことができる。
山は生命の糧を与え、時には生命を奪う。
まるで、白鷺のように。
あの秋の日――。
まだ雪も降らない晩秋の頃、世にも美しいものを見た。
銀色の、死の神である白鷺が、十ほどの子供の魂を連れて、飛んでいってしまった。
あれから十年は経った。田畑や家畜から得られるもので、十分な暮らしができる。だが、いざというときのことを考え、私は山へ分け入る。
食べられる山菜を摘み、獣を狩り、魚を釣る。特に肉や魚は凍らせるか加工すればよい備蓄になる。
狩りを覚え、弓の扱いを覚え、山で守るべきことを覚えた。
すべて息子が死んでから始めた。
食べなければ、生き物は死ぬ。草を虫が食み、その虫を小動物が食み、小動物は肉食の獣が食む。
人もその枠組みにいて、獣や草を食らい、獣の皮を剥いで暖を得、木を切って家を造る。生に感謝し、死と向き合い、力強き植物や動物を敬う。生命を糧に人は生きる。それは、この大地の上で営まれる力強き生命の息吹だと私は思う。
あのときから十年、私は山に分け入り続けている。
あれ以来、備蓄は絶やさないよう気をつけている。食べるに困ることはなくなった。
あのときの苦しみに比べたら、今の私は満たされている。
飢えることなく、日々を満足に食べられる。それは幸福なことである。幸福なことであると、私は身をもって知っている。
畑に出て、山に入って、食べて、眠る。
そうした日々を繰り返すだけの人生でも、何不自由のない暮らしに私は満足しているはずである。
それなのに。
――この虚しさは何なのだろう。
果てのない暗い道を、目的もなく歩いているような、ひどく空虚な心持ちだ。食べても食べても満たされない。食べられることは幸せのはずなのに、何かが欠けている気がする。
――私はこれ以上何を望む?
視界の端で何かが揺れた。
ゆらゆらと、誘っては遠ざかるように揺れ飛んでいる。
――蝶だ。
こんな真冬に、紫色の蝶が一羽だけ飛んでいる。
雪の白と木立の黒ばかりの山に、鮮やかな色を翻しながらひらひらと揺れていた。私は誘われるように蝶を追った。その先に、満たされない何かを埋めるものがある気がした。確信はない。それでも追わなければといけないと思った。
熱い息が空気に溶ける。雪の積もった斜面は登りづらい。
何度か滑りそうになりながらも、山を登っていく。
追いかけてどうなるというのだろう。山を考えもなく登り続けるのは危険だ。もうすぐ日も暮れるというのに、山奥へ入り込めば命の保証はない。頭ではわかっているのに、身体は山を分け入っていく。
雪が降ってきた。
最初は小降りだったが、次第に大雪になってきた。風のせいで積もった雪が舞い上がり、吹きすさぶ。
辺りは霧が包まれるように視界が奪われる。凍えるような風は頬が切れるほど冷たく、雪が積もってきたせいで足取りも鈍くなっていく。毛皮を纏っていても身体が冷えていく。
吹雪がこれ以上激しくなる前に、山を下りるべきだ。容赦なく降る雪を見上げる。厚く垂れ込める曇り空からは止めどなく大雪が降り続いている。
思わず滑りそうになる。足元へ視線を落とす。足に力を入れて、山の奥へ。
山の奥へ行く道は、人が行く道ではない。
獣が行く道だ。
それでも私は山を駆けた。
あの秋の日も、私は駆けていた。北山へ飛び去った白鷺を追いかけて。
だが、山の奥へ消えていく白鷺に追いつくことはできなかった。
あの日も、欠けたものを埋めようとしていたのだ。
あの日は紅葉が舞っていた。今は雪が吹雪いている。吹きつける雪が、額に頬に、切りつけるように向かってくる。視界がほとんどきかない。
それでも足は前へ進んでいく。
私は一体どこへ向かっているのだろう。
山の上か、里か、それとも、私は進めてすらいないのだろうか。
あの、秋の日かから。
突然、前足へ体重を預けた身体ががくんと傾いた。
――崖。
そう思った瞬間、身体は前方へ投げ出された。私は下方にあった雪の上に落ち、全身を打った。人も分け入らない新雪では、私のような重い人間を受け止めることはできないだろう。
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