第三章 道の草 二

 崖下で仰向けになっている。

 毛皮のおかげで背中は冷たくないが、足が痛い。

 起き上がって左足の状態を確かめる。外傷はないが強い痛みがある。動かそうとするが足首から先が動かない。折ったのかもしれない。

 この足では山を下りられない。こんな深山では他に通りかかる人もいない。真冬の北山で夜を明かすことは難しい。良くて凍死、悪くて狼や熊の餌だろう。それも当たり前のことだ。弱くて小さいものから死に、強いものが生き残る。

 雪が頬に、肩に、足に降りかかってくる。私はもう一度仰向けに倒れた。冷たい。私は目を閉じた。空も辺りも真っ白で眩しかったから、目を閉じると辺りが暗やんで居心地がよくなる。

 何だかひどく安心した。

 どこかで、大きな鳥が羽ばたく音を聞いた気がした。

 瞼の裏で昔の情景が思い出される。

 色見草の合間を、私は駆けている。白鷺を追いかけたあの日のことだ。

 北山の裾野にある里は、豊かな土地だった。それでも、自然の恩恵で得た実りは、自然の力であっけなく壊れた。

 ――川向こうの一家が、亡くなられたそうです。

 ――私たちも、いつ命を取られるか。

 山で採った野草を齧りながら、やつれて細った妻が言った。

 田畑の稲や野菜は、ほとんどがこの前の大雨で駄目になった。収穫期、蓄えもない家がほとんどで、私の家もとても一家が食べていける備蓄はなかった。

 今まで野良仕事を中心にしていた私は、その頃山へ獣を獲りに行くことすらできなかった。同じような者は他にもいたが、知識も狩りの仕方も知らず、山へ分け入る者もいた。経験のある者でも、狩りは確実に獲物を得られるわけではない。山を巡っても獣肉を獲れなかった者は力尽きて倒れ、木の根を齧ってでも生き延びようとした者も飢えを凌げず息絶えた。

 山菜や木の実も水害で朽ちたものが多かったから、採れる量は普段ほど多くなかった。いや、体力がなく、少ししか集められずに弱って死んでいったというのが正しかったのかもしれない。

 何人も死んだ。

 痩せて骨の浮いた、乾いた屍体があちこちに転がった。葬儀を行う余裕もなく、屍体を片づける力もなく、屍体の肉は腐って蕩けて、朽ちていった。

 息子も。

 ――あなた。あの子が、あの子が……。

 ――どうしてこの子が……。

 息子は、元々身体が弱かった。重湯や果物を与えて、ようやく生きているような子だった。そうしたものが手に入らなくなり、僅かな食事でさえ手をつけられないほどに弱って。

 息子も死んだ。

 息子の死に泣き崩れた妻も、そのまま泣いて弱って、後を追うようにして死んでいった。

 そして私は山を登って、白鷺を見失った。

 それからずっと、道を見失っているのだ。

 私は十分に生きたと思う。

 皺だらけの爺になり、息子にも連れ合いにも先立たれた。孤独な老人は日々畑仕事と狩りに精を出し、その日その日を静かに生きた。仕事で得た糧は私の腹を満たせども、ただうら寂しい生を引き延ばすだけ。

 眠りたかった。もう二度と目覚めないほど、深く。

 鳥が羽ばたく音が響いた。

「――死ぬるか」

 思わず音と声の方向を目で追う。

 いきなり目を開けると、目が潰れそうなほど眩しかった。

 白銀の雪が舞う山の中に、灯した灯籠を持った男が立っている。

 雪のような冷淡な声だった。

 姿も声も初めて見たのに、私はそれが白鷺だと確信していた。死の淵にいると、人はそれをそうと覚るらしい。

「応。儂はここまでのようだ。連れていけ」

 目を閉じる。

 私はこのときを待っていたのかもしれない。今更ながらにそう思った。

「何故諦める。何故立ち上がらぬ」

「理由がないからだ」

「理由がなくば生きられぬと申すか」

「人とはそういうものだ」

 ただ食らい、子を成し、死ぬ。人とて野の獣とすることは変わらぬ。

 そこには何の意味もない。人はそこに理由を欲する。何もないところに理由を作って、それを杖にして、ようよう歩くことができるのだ。故に人は弱い。

 私は、人で在り続けることに疲れ、さりとて野の獣になりきることもできぬ。どっちつかずのまま老いさらばえ、里と山を行き来し、もう里へ帰る力さえ残っていない。

「獣道は険しく、里への道は遠すぎる。境界には白い花が咲くばかり。儂は何処へ行けばよい」

「我がそんなことを知るものか」

 白鷺はつまらなさそうにそう言い捨てた。人の都合など、神にはどうでもいいものなのかもしれない。

「いずれも、行き着く場所は変わらぬ。獣道でも迷い道でも、そなたは行かねばならぬ。――行くのが生者の道ぞ」

 大きな鳥が羽ばたく音が響いた。

 私は目を開いた。身体を覆っていた眠気や痛みが、幻のように消えた。身体を起こす。

 足の痛みが引いている。私は立ち上がった。折れたはずの足が動く。嘘のように体が軽かった。

 立ち上がったとき、既に雪は止んでいた。

 時が凍りついたような山の中は静謐に包まれ、風に煽られて積もった雪が舞い上がる。

 私は一度だけ後ろを振り返り、山を仰ぎ見た。

 雪化粧した山はただ白く、その冷たく清廉な威容は天を突くが如くである。

 ――どの道を選んでも生者の道であることは変わらぬか。

 死は、道の最期にしか存在しない。

 会いに行くにはまだ遠いようだ。

 狩野は山を下りた。慎重に、里へ下りる道を辿っていく。

 今度は迷うことなく下りることができた。

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ましろの道 葛野鹿乃子 @tonakaiforest

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