最終章

ふとした時にこう思うことがある。


俺は不幸だ。




母親に逃げられ、父親に先立たれ、本当の自分をごまかして明るいをし続けている。


まあ明るく振舞い続けたおかげで今の両親とはうまくやれてるし、昔と違って友達もたくさんできた。


けして悪いことばかりじゃない。


ただ、恋人はできたことがない。


両親の関係が壊れていくのを長い間見てきたから、後々結婚に発展する可能性がある恋愛が怖くなっちゃってね。


あとはそうだな、前の両親と比べると、今の両親の稼ぎが少ないのにも困ってるかな。


学費の半額・家賃・光熱費・携帯料金は、俺のバイト代で賄ってる。


だから就活解禁の3月もいつも通りバイトばかりで、新人研修も任されちゃったから、就職活動は全然進まなかった。


まあなんというか、こうして見ると俺って苦労してるなって思うわけよ。




孝樹の気持ち、正直よく分かるんだ。


周りの人から、こんなことが辛かったとか、過去にこんな不幸な経験をしたとか、そんな話を聞く度に自分と比べて、お前のそれって俺と比べりゃ大したことなくね?って思ったりする。


でも、これって仕方ないんだよ。


過去ってどう足掻いても消えないし、それが辛いものだとしても一生抱え続けないといけない。


だからせめて、過去に傷ついた心を少しでも慰めたくて、他人と比べて自分のほうが不幸だとか、逆にこいつよりはマシだなって思ったり。


そうして自分を納得させ続けなきゃいけないんだ。


人間の脳には“忘却”の機能が基本的についてて、本当に良かったと思うよ。


俺たちはまだ20年ちょっとしか生きてない若者だから、これまで経験してきたありとあらゆる辛い過去をある程度鮮明に記憶しているけど、社会に出て何10年も生きていけば、そのうち色々忘れていくんだと思う。


まあもしかしたら、さらにショッキングな出来事が上書きされるかもしれないけどな。


とにかく、孝樹の気持ちはよく理解できる。


人と比べて自分の立ち位置を明確にしないとやっていけないよな。


こいつより自分は不幸なのにこんなにも必死に生きている、でもたぶんこいつよりはマシな人生だ。


そうやって自分を納得させないと、何食わぬ顔で生きるなんて無理だ。


だって本当に世界で1番不幸な人間がいたとしたら、そんな奴が平気なフリして生き続けているはずがない。




さて、ここからが本題だ。


俺はいつもこう考えている。



人によって、物事を判断する尺度は異なっている。



それぞれが自分だけの物差しをもっていて、それぞれで物事の幸と不幸を測っている。


例えば孝樹が中学生の頃に不良にいじめられたことを不幸だと言ったなら、その事実は孝樹にとって絶対に不幸なんだ。


たとえ孝樹より不幸な人がこの世に何千・何万人いようと、他者が孝樹にどうこう言う権利はない。


当然それは逆も然りだ。


他の誰かの不幸話を聞いた時に、「それって俺と比べりゃ大したことないんじゃね?」なんて言う権利は誰ももってないんだ。


つまり、人と比較するのは意味のないことってことさ。


だって比較に使ってる物差しは、自分のものを勝手に使っちゃってるからね。




ただ、他人との比較をしちゃいけないってわけじゃないと思う。


もちろん本人を目の前にして、「お前なんか俺よりマシだろ!」なんて言うのは絶対にしちゃいけない。


それはただの暴言と一緒だ。


でも自分の心の中で、自分をこの世に留めておくために自分の物差しを利用するのは、別に構わないと思う。


自分の中での思考も、物差しと一緒で自分だけのものだしね。


だから孝樹も、何も気にしなくていいんだ。


自分が不幸なことを嘆くのも、自分が他人と比べて不幸かどうかに拘るのも、何も気にせずやっていいと思う。


だって仕方のないことだからさ。


人間って弱い生き物だろ?


どうせ世の中には知らない知らないことだらけだし、分からないことだらけだ。


だから余計なことは考えなくていい。


でも、そのことについて悩める孝樹は、すごく真面目な奴なんだと思うぜ。


あと、めちゃくちゃ素直でいい奴だ。


不登校になっちゃったクラスメイトが絞り出した言葉を今でもちゃんと覚えてて、それに従って社会のレールから外れることなく生きてるんだから。


ま、俺の話も心の中に留めておいてくれよ。


そうすればきっと、多少は楽に生きられると思うからさ。




・・・・・・・・・・




「…あれ、ライターつかねえや。孝樹、貸してくんね?」



健介は恥ずかしい何かをごまかすような顔で、孝樹にライターを求めた。


彼が煙草に火をつけると、メビウスのさわやかな香りがすぅーっと漂う。



「まあ、そういうことよ。嫌なことは考えすぎないほうが楽さ。ま、無意識のうちに考えちゃうと思うけど、それも別に悪いことじゃない」



1本吸い終わると、健介は持っていたリュックを背負った。



「もういい時間だな。そろそろ飯でもいかね?」


「……うん」



孝樹は健介に続いて喫煙所を出た。


健介がスマホで店を探している最中、孝樹は先程の彼の話を思い返していた。


そしてふと、こんな言葉を思い出した。




井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る




孝樹は何も知らなかった。


健介のことも、自分自身のことすらも。


でも、もう大丈夫だ。


健介の話を聞いて、これまでより少し楽に生きていける気がした。


彼に相談して本当に良かったと思う。


孝樹はしみじみと考えた。


こんな俺だからこそ、健介に救われたんだと思う。


今日この日まで1人で悩み続けたからこそ、出会ったばかりの彼からこの世の心理に近いものを得られた気がする。



「健介、ありがとう」



彼にだけ聞こえるぐらいの声で、孝樹は呟いた。



「……おう」



少し間を置いた後、言おうか迷っていたことを孝樹は口にした。



「あのさ、俺が煙草を吸い始めた理由なんだけど、実は前にあったアレは嘘なんだ。あ、まあ無意識のうちに影響受けてたってこともあり得るけど…。本当の理由は、好きだったバンドのベーシストが吸ってるのを見て、カッコイイなって思ったからなんだ。…だから健介の気持ち、すげえ分かるよ」


「……なんだよそれ、最高じゃん」



健介は優しい笑顔を向けた。


その表情は、今までよりもほんの少しだけ自然な笑顔に見えた。

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樋口偽善 @Higuchi_GZN

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