月下、唆すは猫。

藤咲 沙久

トリックスターの笑う夜


「チェシャ猫の笑うような月ね」

 派手に肩が跳ねた。空っぽにしていた頭が急激に現実へと引き戻される感覚。人の気配と言ったものがまるで無かったため、自分以外の誰かが声を発したことで無防備に驚いてしまった。

 振り向くと、そこに居たのは見ず知らずの少女。高校生くらいだろうか。大胆なほどにさらされた手脚は色香よりも健康的な雰囲気を思わせ、闇夜に差し込む照明の下では判別の出来ない髪色をしていた。

「君、どうしてここに」

 なにも人がいて不思議な場所ではなかった。独りになりたくてやってきた旅先、宿の庭。動揺が過ぎて出た可笑しな問いだ。この少女も宿泊客に違いない。

「月を見に。お兄さんもそうでしょう?」

「まあ……そんなところ、かな」

「チェシャ猫、心惹かれるわよね」

 少女が目を細めてクスクスと笑う。その度にショートボブがふわふわ揺れる。気儘きままにも思える様子は、それこそ猫のようだ。

「それ、なんだっけな。聞いたことがある」

 放っておけばいいのに、つい自分から少女に声をかけた。耳に残る名前だったからかもしれない。

「アリスよ」

「アリス……不思議の国のアリス?」

 そう、と言いながら少女が上を指差す。白い腕が一筋の線みたいに伸びた。その先には普段の生活で目にすることがない星屑の散る夜空。細い、細い三日月が浮かんでいた。

「にんまり笑った、チェシャ猫の口にそっくり。それにほら。上の方は風があるのか、月が消えたり現れたりしてるの。本当に気まぐれな猫」

 なるほど確かに雲で見え隠れしている。長い時間ここでぼんやりと立っていたが、俺は月が出ていることすら気づいていなかった。

 いつもそうだ。俺は何も見ちゃいない。いろんなことから目を背けて、背けて、嫌になってここに来たんだから。

(また逃げるの? って。時子ときこも言ってた)

 逃げないでよ、向き合ってよという彼女の声を置いてきぼりにしたまま旅に出て、卑怯だとはわかっていた。だけど自信がないんだ。

 時子。お前みたいな優しい女が手を差しのべるのが、俺みたいなやつでいいのか? そんな風に聞く勇気もないまま、殻の中で自虐思考に耽る。そして勝手に逃げ出した。本当に俺はどうしようもない。

「迷子になって猫を見上げるなんて、アリスそのものだわ」

 自嘲に浸っていたところで、少女がそう言った。俺はいつの間にか足元へ落としていた視線を、ゆっくりそちらに向けた。

「……迷子? ああ、自分をアリスに例えたのか。可愛いもんだな、旅館の玄関がわからなくなったかい?」

「馬鹿なお兄さん。アリスは貴方よ」

「俺が?」

 クスクス、ふわふわ。少女が笑う。何を言っているんだろうと思うと、少しだけ心がざわついた。

「貴方はアリス。帰り道どころか、帰る場所まで探してるのね。ちゃんとポケットの中は見た? お茶会には間に合いそう?」

「変なことを言う子だな」

「ええ、そう。それが私の役割だもの。貴方もアリスならアリスらしく、きちんとウサギを追いなさい。ここに貴方の探し物はないわ」

 子供に言い聞かせるような口調に苛立ちを覚える。誰がアリスだ、何がウサギだ。帰る場所がわからないなんて……あまりにも図星で、腹が立った。

 それは少女に対してなのか自分に対してなのか、もしくはその両方か。どちらにしても、この不思議な問答に嫌気が差し始めていた。

「君、大人をからかうんじゃない」

「ウサギは待っているの。貴方が捕まえてくれるのを。これが、最後のチャンスよ」

「いったい何のこと……」

 一歩、少女に近づいたところでジーンズの尻が規則的に震えた。スマホが短く鳴ったらしい。少し迷ったが、少女との会話を終わらせられるならとメッセージの確認を優先することにした。

(……時子)

 送り主は背中を向けてしまった相手。躊躇いそうになる指で開封した。


 “きちんと話がしたいの。

 明日、いつもの喫茶店で十四時に待ってる。

 もしこれで会えなかったら……

 もう、終わりにするから”


「ほらアリス、お急ぎなさい」

 少女の声にハッとした。顔をあげればまだそこに居る。だが俺が何か言うより早く、少女はふわりと身を引いて照明の外へと躍り出た。そこは闇夜。白い手脚も溶け込む暗さだ。

「君は、いったい」

 絞り出すように問いかけたが、少女が現れる前と同じように、そこには人の気配と言ったものがまるで感じられなかった。この場を離れる足音は聞こえない。なのに、そこに居るのかもわからない。

 俺はもう一度画面を見た。最後のチャンスと少女は言う、まるで俺たちのことを示すように。

(きっと、俺はこれからも逃げる。意気地がないから、すぐに自信を失くす。時子を幸せに出来ないかもしれない)

 それでも。今だけは、踏み留まるべきなんじゃないか。手を離したくない相手を自ら遠ざける失敗を、今この瞬間だけでも防ぐべきなんじゃないか。最後のチャンス、それはチェシャ猫の名と同じくらい耳に残るフレーズだった。

 夜は更けた。明日、朝一番の新幹線に乗れば昼には東京へ着くはずだ。誰にともなく頷いてから、スマホをポケットに捩じ込んだ。

 また照明の向こうへ目をやる。やはり少女の気配はない。虫の音が静かに響いているだけだ。空に笑う三日月のように、雲の後ろへ隠れてしまったとしか思えなかった。

「……猫は、君か」

 誰も返事はしなかった。不思議な心地を胸に感じながら、俺は旅館の部屋へ戻るために歩き出した。

 明日、時子に会おうと決めて。

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月下、唆すは猫。 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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