後編
自殺志願者だった女性は、逃げるように出て行きました。
不思議なものです。少し前まで死のう死のうって思っていたのに、いざ死に直面するととたんに怖じ気づいてしまうのですから。
けど、それで良いのです。取り返しのつかない事になってから後悔するよりも、怖くなって逃げ出す方がよほど。
……とは言え、これはさすがにやりすぎな気もしますけど。
未だに大量の幽霊が蠢く店内。
カウンターの奥で一仕事終えたと言わんばかりの態度でコーヒーを飲んでいる彼女をジロリと見ると、向こうはそれに気づいてヘラヘラと笑う。
「知世ちゃん、そんな怖い顔しなくてもいいじゃない。アタシのおかげで、若い命が散らずにすんだんだから。そりゃあイタズラ心がなかったわけじゃないけど、そこはほら、タヌキの性よ」
そう言った彼女の頭からは、茶色くて丸っこい耳が二つ、ニョキっと生えています。
カウンターの奥にいるので見えませんけど、きっと太い尻尾も生えているはず。
彼女の名前は豆子さん。今は人間の姿をしていますけど、その正体はタヌキの妖です。
と言っても、悪い妖ではないのですけどね。
「いい加減この幽霊たち、消してもらって良いですか」
「あいよ」
豆子さんがパンパンと手を叩くと、途端に幽霊達はスッと姿を消しました。
彼らは本物の幽霊ではありません。豆子さんの見せた幻だったのです。
さっきは女性を怖がらせるようなことを言っていた豆子さんですが、何も本気で彼女を死者の仲間にするつもりだったわけではありません。
ただ死ぬということがどういう事か教えたくて、一芝居うっていたのです。
昔話しで、タヌキにありもしない幻を見せられて化かされたって話があるじゃないですか。
それと同じ要領で、幻術を見せていたわけです。
物を食べたら帰れなくなる? 確かにそういうこの世ならざる場所があるのは事実ですけど、このお店はその限りではありません。
だから私だって美味しい紅茶を、何の問題もなく頂いています。
「店に入ってきたあの子を見て、ピーンと来たよ。ああ、コイツは命を断つために、こんな山の中まで来たんだなって。自殺場所としてこの山を選ぶ人、少なくないしね」
さすが、長年この場所で店を構えているだけはあります。
きっと今までに何度も、さっきみたいに自殺志願者を思い止まらせて来たのでしょう。
やり方は少々悪趣味ではありますけど、効果はてきめん。あっという間に突っ走って行っちゃいました。
あの様子だともう、簡単に死のうだなんて考えないはずです。
「最近はさ、簡単に命を絶とうとする人間が多くて困っちまうよ。生きてるってことはそれだけで、価値があるって言うのにさ」
「それに気づけないくらい、追い詰められていたってことですよ。悲しいですけど、たぶん珍しい話じゃないと思います」
自殺する前にこのお店に立ち寄れたのは、運が良かった。
何が彼女を追い詰めていたのかは知りませんけど、これからは生まれ変わった気持ちで、生きてほしいものです。
見ず知らずの他人でも、死ぬのは悲しいことですから。
「あー、それにしても。お金を払ってもらえなかったのは失敗だったー。コーヒーとハンバーグ、ただ食いされたー!」
「残念でしたね。それはそうと、私は本題に入らせてもらいますね」
さっきの女性は思い止まってくれたけど。豆子さんが言ったようにこの山にはたくさんの自殺志願者をがやってきて、実際に命を断った人も少なくない。
私はそんな人達の魂を静めるために来た、祓い屋なのだ。
リュックの中から祓い棒を取り出して、大きく振りかざす。
どうかこの山に住まう霊達が、心穏やかでいられますように。
了
樹海の中の喫茶店 無月弟(無月蒼) @mutukitukuyomi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます