紅に染まる黒
強い朝の光が瞼を照らす。
遮光カーテンを取り去り、レースのカーテンにしてから久しい。
晴れた朝は、部屋の中が一面の菜の花畑のように鮮やかな黄色に染まる。
神々しいこの光が何度、後ろ向きになりそうな私を引き戻しただろう。
今日の朝日は格別に輝いている。まるで、祝福してくれているようだ。
眠りからの覚醒とともにゆっくりと強烈な光に目を慣らすと、園田圭は目を開けた。
枕元にあるスマホを開く。
待ち受け画面は、大学の研究室棟から見える銀杏並木の写真。もう何年も変えていない。
ひらひらと舞い落ち、道を埋めつくす黄金色の葉。並木道に点在するベンチ。
目にする度に圭をあの秋の日に連れ戻す。
メッセージが一通来ている。
顔色一つ変えずにスタンプひとつで返信を済ますと、圭は起き上がり窓辺に立った。
…5年。
長くて、短かった。
私にも、研究室のメンバーにも、この世界のどこかにいるあの人にも、平等に流れた時間。
私はあの人に恥じることなく、過ごせたはずだ。
熱いコーヒーを飲み干すと、圭は身支度を始めた。
純白のサテンのスタンドカラーシャツに袖を通すと、濃紺のノーカラージャケットを羽織る。
この日のために新調したセットアップのパンツスーツは、圭の細身の体によく馴染み、知的さを際立たせている。
玄関で靴を履く前に室内を振り返ると、圭は部屋いっぱいに充満した清潔なシャボンの香りを胸いっぱいに吸い込み、満足げに微笑んだ。
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普段は縁遠い高級ホテルの宴会場フロア。
分厚い絨毯に足を取られて難儀しながら控室に着くと、入り口付近で待ち構えていた高野仁が近づいてくる。
知った顔にホッとしている自分に、圭は非日常空間で柄にもなく緊張していることを認識した。
「園田さん、改めまして、この度は受賞おめでとうございます。今日は私もプレス席から参加させてもらいます。取材カメラも入っているので、よろしくお願いします!」
この5年、高野は継続して圭を取材し、二人は何度も食事を共にしたりするなかで絆を深めていった。
兄のような高野の存在が、どんなに心強かったことだろう。
「随分改まった口調ですね。寝坊していないか確認までして。今日が大切な日なのはあなたより分かっているつもりです。」
高野はニヤリと笑う。
「相変わらずだなぁ、園田さん。スピーチ、楽しみにしてますよ。じゃ、会場で。」
民間企業と関連省庁、大学が手を組んで大規模な防災システムを開発する共同プロジェクト。
革新的なシステムを開発し、昨年末に実装された。
圭は大学のプロジェクトメンバーとして災害の予測と対策に関する研究を専門的に行い、大きな成果をあげたことで、省庁主催の特別な賞を受けることになった。
寝る間を惜しんで心血を注いだ研究。この5年は特に、体を壊さなかったのが不思議なくらい、すべてを研究に捧げた。
社会課題の解決に貢献したい。
その思いだけではない。圭にはいつも、心の支柱にする存在があった。
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「本プロジェクトに数学的観点から大いなる貢献をされた工理大学の園田圭准教授です!大きな拍手とともにお迎えください!」
大勢の報道陣のフラッシュがまぶしい。
圭は壇上に上がり、大臣から賞状を受け取ると、マイクとともにスピーチを促された。
会場内は想像以上に人が多い。
プレス席は、関係者席の後ろ。壇上からみて右側。
盛大な拍手、消えてくれないフラッシュの残像。
圭は目を凝らす。
いるはずなんだ。見えてくれ…。どうか…。
チカチカする視界が徐々に晴れていく。
鼓膜を揺らしていた拍手と歓声が遠のいていく。
ああ、やはり。
来てくれた。
まるで霞の中にいるようだ。でも、分かる。
変わっていない。全く、変わっていない。
泣きたくなどないのに、涙があふれる。
どれくらい時間が経ったのだろう。
圭は司会者に肩を軽く叩かれて我に返る。
「先生、スピーチを。」
圭は視線を逸らさず、ゆっくり話し始めた。
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「この世に起こる予測が不可能だと思われてきたできごとを数学的視点から可能にし、未然に防ぐようにするのが私の仕事です。
ある程度の成果を挙げ、こうして賞をいただけたこと、嬉しく思います。」
関係者への感謝など、お決まりの文句を並べ終わると、圭は大きな深呼吸を一つついた。
視線は変わらず一点を見つめている。
「さて、予測不能なできごとがもたらすのは、不幸だけではありません。
ときに、幸せももたらします。そして活力を、もたらします。
私はこの賞を、ある一人の女性に捧げます。
彼女との出会いは私にとって、予測不能でした。そして、彼女が私におよぼす影響もまた、予測ができませんでした。
でも、彼女は私の人生を変えました。苦しみ以上に幸せを、活力を与えてくれました。
私はこれからも研究を続けます。彼女が私に幸福をくれたように、この世界に幸せを運ぶものを探し、それをできるだけ多くの人に届けたい。
それが私の研究の次の目標です。」
視線の先の女性は、あの日と同じように泣いている。
でも圭にははっきりと見えた。その口元に微笑が浮かんでいるのを。
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授賞式が終わると、圭は報道関係者に囲まれた。
やっとのことですべてのメディアへの対応が終わると、急いで控室に戻りながら高野に電話をする。
トゥルルルル…
トゥルルルル…
応じない高野に苛立ちを覚えながら、日本庭園に面した窓の前に並ぶ椅子に視線を移すと、一人の女性が目に入った。
美しい姿勢、黒く豊かな髪。
窓の外を舞う蝶を、静かに見つめている。
圭の手から、スマホも賞状も、すべてが零れ落ちていく。
ふらふらと近づくと、女性が圭に気づく。
見たこともないような鮮やかな薔薇色の頬。
笑いながら涙を流すその女性の足元に、圭は跪いた。
遠慮がちに、圭の髪に伸ばされる手。
指先が震えている。
圭はその手を取ると、両手で包み込んだ。
「今日、あなたがここに来ること、分かっていました。」
「高野さんが…?」
喉がつかえて消え入りそうな声。
「いいえ。高野さんは見事に、あなたのことを何も教えてくれませんでした。
予測、したんです。私の得意分野ですから。
緻密な分析に基づく、確実性の高い仮説立てです。
あなたのことを考えない日は一日もなかった。」
相変わらず紅潮した頬に流れ続ける涙。
圭はジャケットのポケットから白いハンカチを取り出すと、目の前の女性の頬を優しく拭った。
「ご自身の歪んだ思考を治癒することは、できましたか?」
「いいえ。残念ながら。それでも、会いに来てしまった。意志の弱い私を、許して…。」
消え入りそうな声。
「それも、分かっていました。私の予測はかなりの精度のようです。」
俯く視線。圭の冗談に微かに上がる口角。
「あなたの帰る場所は、もう用意してあります。一人で治癒する必要なんてない。これからは二人で、生きていくから。」
圭は目の前の女性の手を取ると、勢いよく立ち上がった。
「かおるさん、帰りましょう。」
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一面の菜の花畑。
暖かい日差しの中、鮮やかな黄色い花が咲き誇る。
圭は、愛しい女性の髪をゆっくり撫でる。
柔らかな寝息。
穏やかな寝顔。
黒は、不安、悲しみ。
紅は、情熱。
あなたの黒を、私の紅で染めよう。
圭は相馬かおるの額にそっと口づけると、二度目の甘い眠りに引き込まれていった。
紅に染まる黒 桜花 @ouka09
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