袖ぬるるこひぢと知りながら②
「デート、楽しんできてくださいね。」
どうしてこの人は、こんなに残酷なことを笑いながら言えるんだ。
あの時、あなたの考えていることがすぐには理解できなかった。
でも。
アルカイックスマイル。
ぎこちない足取り。
去っていく寂しそうな背中。
全てが、この言葉があなたの本心ではないことを物語っている。
気のせいではないと、言ってほしい。
あなたは嫉妬をしている。
…そうですよね?
私を特別な存在だと思ってくれていると、自惚れてもいいですか?
メッセージの着信を告げるバイブ音。
「おはようございます。昨日はひどく疲れていてスマホを見る余裕がなかったので、送ってくれていたメッセージにお返事できず、ごめんなさい。今日も一日、頑張ってね。」
何事もなかったような口ぶり。
圭は昨日の取材のあと、かおるに何度もメッセージや着信を送ったが、かおるからの返信はなかった。
でも、かおるさんにとっても、そんなに大したことではないのかもしれない。
圭は安堵して、いつもの定型文に一文を付け足して送った。
「おはようございます。良い1日になりますように。昨日の後輩とは、何もないので安心してください。」
嫉妬は、私を好いてくれている証拠。
正直、嬉しい。
私と冴の間に何もないこと、私の気持ちがかおるさんのものだと、話せばわかってくれるはずだ。大丈夫。
圭は昨日のかおるの言動を好意の裏返しと結論付け、優越感を感じるとともに楽観していた。
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一睡もできなかった。
圭からの着信やメッセージは何度も届いたが、応じることも、見ることもできなかった。
それでも、着信音は切ることができなかった。すべてがあなたから私への好意を、気にかけてくれていることを示すものだから。
圭さん、あの後輩の女性と食事に行ったの?
容姿端麗で気の強そうな子だった。
こんなに汚れて、自分のことすら制御も理解もできない私なんかよりきっと、快活で魅力的な子なのでしょう。
そしてあなたと長年一緒に研究をし、毎日のように顔を合わせ、会話をする。
私よりずっと、お互いのことを理解しあっているのでしょう。
…あの子に、心が揺れたことはあるの?
あの子を恋愛対象として、後輩ではなく一人の女として、見たことはあるの?
何度もフラッシュバックする圭と冴が話す光景。圭はかおるに見せないくだけた表情と口調で話し、冴は自然に圭の腕に手を置いていた。
今までもこれからも、日常的に繰り広げられるであろう自然な光景。関係性。
歪んだ愛情で圭さんに迷惑をかけることが明らかな私と、ポジティブな関係を築けるであろう彼女。
どちらと一緒にいるのが圭さんにとって良いか。
私が身を引くのが正解だ。
それは分かってる。
分かってる。
十分すぎるほど、分かっている。
でも。
譲れない。
あの透明で純粋な美しい人を。
私を浄化し、解き放ってくれるあの人を。
園田圭の眼差しはいつも真っすぐだ。
研究に向き合っている時も、私を見るときも。
あの眼差しがあの子に向けられるのを、許すことはできない。
今すぐ、抱きしめてほしい。
指で、腕で、唇で、激しい感情で、バラバラになるまで、私を壊して。
いなくなるべきなのはわかっている。
でも、離れられない。
だからもう少し、そばにいさせて。
邪魔はしないから。
あなたから、愛されていると感じていたい。
圭の研究や幸福に悪影響を及ぼすと認識しながら、かおるは自分の欲望を優先した。
圭さん、ごめんなさい。
まだ離れる決断ができない。
かおるは圭に気持ちを悟られないよう、毎朝の習慣となっているメッセージを圭に送った。
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2週間後、圭の2回目のテレビ取材の日。
今日は夕方から撮影をし、夜は取材班と打ち上げの食事をする予定がある。
かおるからは、急な別件が入り、取材も打ち上げも参加できないと連絡があった。
圭は大きく落胆した。
あの日から毎日、メッセージのやり取りをしているが、電話は一度もしていない。
だから、かおるの声が聞きたくて、会いたくて仕方なかった。
かおるさんは、私と同じ気持ちではないのだろうか…。
もし私と同じ気持ちだったとしても、遠慮して口にすることはないだろう。
そんなかおるさんなのに、冴に対する感情を隠すことはできないようだ。毎日のメッセージで冴のことを頻繁に話題にした。
「綺麗な子でしたね。今まで、かわいいと思ったこと、何度もあるでしょ?」
「今日もあの後輩の子と遅くまで研究室に?意外と真面目な子なんですね。そんなところがあなたに合っているのでしょうね」
さりげなく、冴に対する圭の気持ちを確かめるような言い方をしてくる。
圭はその度に、かおるの嫉妬心と独占欲を知って、幸せな気持ちになった。
私はかおるさんの特別だ。
だから、心配させないようにしないと。
「冴は確かに綺麗な子ですが、わたしにとってはただの後輩で、それ以上でもそれ以下でもないです」
冴に対する特別な感情はないと返事をしても、かおるはいつも返答することはなかったが、圭はかおるを安堵させていると信じていた。
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取材は滞りなく終わり、一行は打ち上げ会場に移動した。
席に座ってオーダーを済ますと、圭のスマホが鳴る。
画面を確認すると、圭は高野に弾んだ口調で声を掛ける。
「かおるさん、打ち上げに顔を出せるそうです。最後のほうに少しだけ。」
「おー、良かった!かおるが持ち込んでくれた企画だから、来ないとね。」
河上冴はいつも落ち着いている圭がはしゃぐ姿を横目に、あからさまに不快そうな表情でため息をついた。
飲み物が運ばれると、高野が立ち上がりビールを注いだグラスを持ち上げ、打ち上げの開始を告げる
「この度は、園田圭さんの密着取材第1弾のご協力、ありがとうございました!撮了を祝して、カンパーイ!」
堅苦しい挨拶がないところが、高野らしい。
圭はグラスに注がれたビールを一気に飲み干すと、爽快な気持ちになった。
かおるさんとの出会いから端を発したこの企画が一区切りし、これから、会いたくてたまらない女性に会える。
浮かれた気持ちで2杯目を注ごうとすると、冴がグラスの口を手で塞いだ。
圭は子供のように不満を口にする。
「ちょっと、冴。気持ちよく飲んでるんだから!」
「そんなにあの人が来るのが嬉しいんですか?これから取材の人たちが挨拶に来てその度にお酒を注がれるのだから、いまはセーブしたほうがいいですよ。先輩のためです。」
つんつんした口調ながら、話す内容は優しい。
冴の言う通り、その後は高野やそのほかの取材関係者が圭の席に来ては雑談をしていき、圭はいつもより酒がすすんだ。
やっと1人になれたのでスマホを確認すると、かおるからメッセージが届いている。
「20時ごろには到着します」
時計は19時40分を表示している。
あと少しだ。あと20分。
酔いも手伝って、人前なのに顔を緩ませていると、突然背中に熱く重いものが圧し掛かってきた。
「先輩、飲みすぎて気持ち悪い…。外に連れて行ってください…。」
振り向くと、冴が具合悪そうにしている。
「冴、大丈夫?私には注意してくれたのに自分は気を付けなかったの!?外は雨だよ?お店のトイレに行く?」
「涼しいところがいい。外がいい。外に連れて行って…。」
困ったな…。もうすぐかおるさんが到着するのに…。
仕方ない。外に出たとしても30分程度で少しは回復するだろう。すぐに戻ってくればかおるさんをそこまで待たせずに済むだろう。
圭は高野に事情を話すと、冴を支えながら外に連れ出した。
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朝から降り続いている冷たい雨は、まだ止む気配がない。
雪まじりの細かな雨となって降り続いている。
「すぐ近くに公園があるんです。そこで休ませてください。」
外に出ると急に冴の足取りはしっかりとして、圭の先に立って歩いていく。
何かおかしいと思いながらも、圭は黙って冴のあとをついていく。
小さな公園に着くと、冴は足を止め圭の方に振り返った。
眉間に皺を寄せ、非難するような目で圭を睨みつける。真っ白な肌に、酔いの赤みが主張している。
さしている傘が濃赤だからか、その表情は怒りの色を増し、もともと気の強そうな目元により力を加えている。
「先輩、あの女性と付き合ってるんですか?」
やはり、具合が悪いというのは口実か…。
「…付き合っているわけではないよ。」
「じゃあ、どんな関係なんですか?先輩はあの人のこと、どう思ってるんですか?」
「…私が、一方的に好きなだけだよ。」
「あの人は先輩をもてあそんでるだけだと思います。」
「彼女がどんなつもりでも、私たちがどんな関係でも、冴には関係のないことだよ。」
この一言に激高する冴。
「関係なくない!どうしてわからないの!?先輩、私はずっと、出会った時からずっと、先輩だけを見てきた。
先輩だけを好きなのに!私がもっと早く告白していれば、あなたは私を見てくれていたはず。そうでしょ!?」
じりじりと圭に近づく冴。
「それなのに。それなのに!突然現れたあの女にあなたを奪われる!そんなの耐えられない!」
冴は傘を投げ捨てると、圭のもとに駆け出し、その勢いで圭の胸倉をつかんで揺らす。
「どうして!?どうして私じゃないの?ずっと、ずっと好きだったのに…!」
冴は圭の胸元の服を引き寄せると、そのまま顔を埋めて激しく泣き始めた。
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急いで打ち上げ会場へと向かうかおる。
降り続く寒雨。いつもなら足を濡らす冷たい雨を不快だと思うのに、いまは心地よいとすら感じる。
高ぶった感情と熱を持った体を落ち着かせてくれるから。
この2週間、電話は怖くてできなかった。
声を聞いてしまったら、心が放たれてしまうから。口頭でのやり取りは、感情をむき出しにするから。
支離滅裂で理不尽な感情を吐き出して、圭に嫌われたくない。
だから、メッセージだけにとどめた。
冴のことをどうしても聞いてしまったが、圭はいつも冴に対して恋愛感情はないと伝えてくれた。
2週間経ってやっと、嫉妬心は落ち着いてきていた。
会いたい。
何をしていても常に圭のことが頭の片隅にあり、毎日が圭のことでいっぱいだった。
もう、限界。
会いたくてたまらない。
急に入った外せない仕事がようやく終わり時計を見ると、打ち上げがもうすぐ始まる時間だ。
間に合った。
ここからだと会場まで1時間半はかかるから、最後、少しだけになるが、顔を出すことはできる。
解散したあと、圭と少し話をしよう。そしてできれば、私の家に来てもらおう。
圭の笑顔、瞳を思い浮かべる。
触れ合えることを期待して、浮足立つ。
私はいま確かに、幸福を感じている。
かおるは打合せ会場の居酒屋に着くと、真っ先に圭を探した。
でも、どこにもいない。
大木教授に挨拶をすると、高野の元に向かう。
「お疲れ!園田さんは、あの後輩の女の子が具合悪くなったから、一緒に外に涼みに行ったよ。」
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嫌な予感がする。
居酒屋を出るとすぐに圭に電話をする。
出ない。
もう一度かける。
出ない。
かおるは傘もささずに闇雲に駆け出した。
走りながら圭に何度も電話を掛けるが出ない。
どうして出ないの。
何が起こっているの。
あの子と、何をしているの!?
私が特別なんでしょう!?だったら、私の電話に出て。何よりも私を、優先させて。
怒りでスマホを地面に叩きつけそうになるのをすんでのところで思いとどまると、また走り出した。
呑み込まれていく。
嫉妬のどす黒いヘドロが体にまとわりつき、そのままズルズルと、暗く深い闇に引きずりこまれていく。
私から圭さんを奪うあの女性を許せない。
漆黒の闇に呑まれたかおるは完全に理性を失った。
血眼になって圭を探すかおるの目に、細長い後姿が飛び込んできた。
その背中には、誰かの腕が巻き付いている。
圭は相手が濡れないように傘を傾け、背中を濡らしている。
もう片方の腕は相手の背中を軽く支えている。
抱き合う二人の人間。誰と誰かなんて、確かめなくても分かり切っている。
やはり…。
やはり嘘だった。
私を好きだなんて。
こうやって二人は愛し合いながら、愛に飢えた私を笑っていたんだ。
地面が揺れる。
理性が崩れていく。
嫉妬と猜疑心に呑み込まれたかおるは、人としての良心や善悪判断を捨て去る。
まるで恋敵を殺そうと毒を注ぐ魔女キルケのように瞳に憎しみと冷酷さを宿すと、圭の肩に手をかけ、力任せに引っ張った。
圭の体がバランスを失い、後ろによろめく。
その瞳がかおるを捉えると一気に顔色が変わり、驚きとともに怯えが表れる。
「かおるさん、これは、そういうんじゃない…」
かおるは聞く耳を持たず圭を無視して冴に近づくと、その頬を思いきり叩いた。
冴の顔に、一瞬にして怒りの炎が燃え上がる。
かおるがもう一度冴を叩こうと手をあげた瞬間、圭がかおるの体を後ろから羽交い絞めにして身動きを取れなくした。
「かおるさん、落ち着いて。あなたの考えているようなことは何もない。あなたが好きだ。誰よりも。信じて。落ち着いて。」
かおるの耳元で、低い口調で繰り返す圭。
抵抗して圭の腕を振りほどこうとしていたかおるだが、どう足掻いても逃れられないことを悟った。
かおるを呑み込んでいた漆黒のヘドロが流れ落ちていく。
理性を少しずつ取り戻したかおるは、自分がしたことに気づき、茫然とした。
なんてことをしてしまったの…。
完全に、我を失っていた。
圭がかおるを抱擁し落ち着かせているのを目にした冴は、悲しみの表情を浮かべて、走り去ろうとする。
かおるは圭の腕を振りほどき振り返ると、大声で叫んだ。
「追いなさい!」
圭は首を振る。
「嫌だ。私が好きなのはあなたなんだ。冴じゃない…。」
かおるは圭の腕を力の限り握り、今度は抑えた声音で圭に語り掛ける。
「彼女を追って、家まで送り届けないと、私はあなたの気持ちに永遠に応えない。それでもいいの?」
圭は絶望的な目でかおるを見ると、冴の後を追った。
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冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。
まるでその一粒一粒が太い針のように、体を突き刺していく。
ずっと、こうしていつも心に強い痛みを感じていた。
「良い人間」、「迷惑をかけない人間」、「モラルのある人間」でありたい、そうあるべきと思って生きてきた。でも。
私はそういう人間にはなれないことも、分かっていた。だから、窮屈で仕方なかった。
自分を押し殺し、誰かを不快にさせないように生きていくのは、いつも惨めで、いつも心は血を流していた。
でも、もう耐えられない。
あなたに会って、どんな私でも好いてくれる人がいると、知ってしまったから。
もうこの痛みに耐えなくていいと、知ってしまったから。
かおるは自宅に戻るとすぐに荷物をまとめて部屋を出た。
近々、この部屋を引き払おう。
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あの日以来、かおるさんと連絡が取れなくなった。どこにいるのかも、何をしているのかも、全く分からない。
フリーで働いているから、会社に連絡して聞くという手段も使えない。
仕事の情報を発信しているSNSも、消された。
高野さんに聞いても、分からないという。
頻繁にかおるの家に行ったが、ずっと留守だ。
生死も、どうして突然消息を絶ったのかも、分からない。
圭は毎日かおるを探し続け、憔悴し切っていた。
冴はそんな圭に心を痛めていた。
冴はまだ圭への想いを捨てることはできなかったが、あの日以来、気持ちに折り合いをつけようと努力していた。
絶対に手に入らないと気づいたから。もしあの女性編集者が現れなくても、先輩は私のことを見ることはないと知ったから。
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かおるが去ってから二週間後の日曜日、圭にメールが届いた。
送信元は、相馬かおる。
手が震える。涙が止めどなく流れ落ちる。
― 園田圭さん
突然姿を消したことを、許してください。
私は今までの人生、自己否定と承認欲求、愛情の渇望に苦しんできました。
でもあなたと出会って、私が私として愛されることができるのだと知りました。
苦しみが、痛みが緩和される一方で、私はどんどん欲深くなっていきました。
あなたと永遠に一緒にいたい。
あなたを誰にも接触させたくない。
あの部屋に二人だけでずっといたい。
片時も離れたくない。
私を常に優先してもらいたい。
一生の愛を誓ってほしい。
自己解放は、欲望の解放でもあったのです。
このままだと私は、あなたを束縛し、研究すら行かせたくないと思うでしょう。そしてそれができないことに苦しみ、精神を病むでしょう。
あなたは、研究を第一に生きるべき人。
それは今までも、これからも不変であるべき。
私がそばにいては、それが妨げられる。
だから私は、あなたの元を去ります。
私は、自分を治癒する必要があるから。
歪んだ思考を根本から理解し、正す必要があるから。
どうか、自己中心的でわがままな私を許してください。
いつか、もし許されるのなら、もしお会いできるのなら、その時は笑顔でお話がしたいです。
どうか、お元気で。
いつもあなたを応援しています。
それだけは忘れないで。
相馬かおる ―
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