袖ぬるるこひぢと知りながら①

6時40分。


まどろみのない覚醒を迎えた園田圭はすぐさま枕元のスマホに手を伸ばすと、この2週間毎朝送っている定型文を送信した。


「おはようございます。良い1日になりますように。」


遮光カーテンの隙間から漏れ入る一筋の光。冬の朝日は優しい。


圭はその光目指して跳ね起きると、カーテンを勢いよく開けた。


うん、今日もいい天気だ。


浅い眠りのまま、目覚まし時計が鳴る前に起きる日々。寝不足続きで体力は落ちているはずなのに、活力に満ち溢れている。


返信を告げるバイブ音。


「おはようございます。今日は7時発の新幹線で名古屋。昨日遅くまで話していたから眠いでしょ?圭さんもお仕事頑張ってね。」


表情がだらしなく緩むのを感じながらスタンプを一つ送ると、圭は身支度を始めた。


かおるに想いを告げたあの日から、圭とかおるは1日に何度もメッセージのやり取りをし、夜や休日は電話をして頻繁に話した。


お互いに多忙でなかなか会えないから、こうしてテキストや通話でつながる時間が欠かせないのだ。


これまでにない幸せを感じ仕事にも一層身を入れられるようになった圭だけれど、まだかおるの気持ちを聞けていないことが気がかりだった。


かおるさんにとって私は、一体どんな存在なんだろう。


かおるは、圭からの好意に感謝していると、もう不特定多数の相手とかりそめの肉体関係を持つ気がなくなったと、伝えてくれた。


そして圭を名前で呼んでくれるようになり、圭のこれまでの人生にあったことや考えたこと、日常生活についてたくさんの質問を投げかけてくる。


自分自身のことを話すのはあまり好きではないと言いながらも、かおる自身のこともたくさん話してくれるようになった。


「こうして、いつも繋がっていたいと思えるのは圭さんだけ。いくら時間があっても話し足りないくらい。」


これらは十分、かおるにとって圭が他の人とは違う特別な存在だと示していた。


でも圭は、明確なステイタスが欲しかった。


恋人というポジションが。


0か1、ONかOFFかで考える圭にとって、どっちつかずなこの曖昧な関係は歯がゆく、意味もなく焦りだけが募っていった。


でも、複雑な過去とそのトラウマに苦しむかおるに、関係性を今すぐはっきりさせてほしいとは、どうしても言えなかった。


いまの関係のままでもお互いに幸せを感じているのだから、気長に待とう。


圭は欲張りな願望が顔を出す度に、そう自分に言い聞かせた。


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2月3日。


研究室は朝から賑やかだ。


今日からテレビの密着取材が始まる。今日と2週間後にまず第1回目を撮影し、その後は半年や1年と期間を開けて長期的に記録をしていくことになるらしい。


テレビ局のディレクターの高野ほか、撮影スタッフが数名、研究室で準備を進めている。


かおるからは、少し遅れて到着すると連絡が入っていた。


圭は取材に対して、研究の時間を少し邪魔されるということ以外は、大いにメリットがあるものだと思っていた。


大学や研究の広報ができることは大きな利益だし、かおるが長年携わってきたメディアの仕事を知れることも貴重な機会だった。


もちろん、かおると一緒に過ごせることも。


そして今日知った取材のもう一つのメリットは、かおると長い付き合いの高野から、かおるの情報を聞き出せるということだ。


かおるから直接、高野は兄のような存在で恋愛関係になることはありえないと聞いているので、圭にとって高野は敵ではなく、むしろ有益な人間になっている。


「高野さん、かおるさんの若いころは今と違いましたか?」


「一言でいうと、今よりも尖ってましたねー。プライドが高くて、仕事に対して不純な貪欲さがあって。のし上がってやるぞ、っていうようなね。なんとなくわかるでしょ?今もそういう雰囲気少し残ってるから。


でもフリーになって、有益な情報をたくさんの人に伝えるっていうメディア本来の目的を再認識してからは、水を得た魚のように生き生きとして、性格も丸くなりましたよ。」


高野がかおるを妹のように可愛がっていることが伝わってくる。


「確かに、かおるさんからはハングリーさのようなものを感じますね。でも、純粋な好奇心と仕事への情熱、それに母性のような柔らかさを感じます。」


「そうそう、一丁前に包容力みたいなもんが出てきてるんですよ。園田さん、よく見てますねー!」


いい奴じゃないか、高野さん。


もっとかおるのことを聞き出そうとする圭。


「それで…」


「先輩!身だしなみ直しましょうよ!私、メイク道具とか持ってきたので!」


突然強い力で腕を引っ張られた。


振り向くと、後輩の河上冴が満面の笑みを浮かべている。


2年後輩の冴とは、彼女が大学生3年生の時からの付き合いだ。


圭が大木教授のゼミで助手をしていたときに頻繁に話しかけてきた冴と親しくなり、その後冴は猛勉強の末、この研究室に助手として入職した。


茶色く染めた巻き髪、ナチュラルだけれどしっかり施されたメイク。同世代のOLが読むファッション誌から抜け出てきたような、流行を逃さない服装。


研究棟に出入りする人間の中にはあまりいないあか抜けた見た目で、男性からの人気が高いらしい。


「えーっと、研究室の方かな?初めまして!取材をさせていただきます、高野です。なるべく皆さんのお邪魔にならないようにしますので、今日はよろしくお願いします!」


高野がフランクな口調で冴に声をかける。


「あ、ご紹介してませんでしたね。当研究室の助手で私の2年後輩の河上です。冴、ちゃんとご挨拶して。」


圭が促すと、冴は露骨に気乗りしない態度で高野のほうを向いた。


「どうも。園田先輩はすごい人なので、偉大さを世間の皆さんにちゃんと伝えてください。」


口調と表情に棘がある。


「行きましょ、先輩!」


冴はすごい力で圭の腕を引っ張ると、高野から引き離した。


かおるさんのこと、もっと聞きたかったのにな…。


残念な気持ちとともに、圭は客人に対する冴の失礼な態度を見て、自身もこれまでかおるや高野に社会的常識を欠いた態度を取っていたと反省した。


「いま私は高野さんと話してたよね?突然割って入って、しかもあの態度。ちょっと失礼じゃないかな?」


「だって、話って、どうせこの間の女性編集者のことでしょ?雑談じゃないですか。今日の取材に関係ない、不要な会話ですよ。


取材だって、彼らが勝手に始めたことでしょ。こちら側は貴重な研究の時間を割かれるっていうデメリットしかないじゃないですか。」


圭を椅子に座らせて、不機嫌そうに髪をとかし始める冴。


「いや、この取材にはメリットがある。冴もこの研究室の一員ならそれくらい考えられないと。」


冷静で断定的、批判的な圭の口調に余計苛立つ冴。


「…周りの人が気づいてないと思ってます?


先輩がこの取材を受けたのは、あの女性編集者目当てだって。


少なくとも私は、知ってます。何年あなたと一緒にいると思ってるんですか。


突然現れて先輩の邪魔をするあの人、私は好きじゃない。」


背後に立つ冴の表情は窺えないが、その声音には凄みを感じる。


「確かにかおるさんは素敵な方だけど、別に、特別な関係ではないから。それに、それとこれとは別の話しだよね。


私は研究室へのメリットを第一に考えてる。世間にこの研究が知られればいま以上に資金援助を得られるかもしれない。」


かおるへの感情を周囲に勘づかれていることにギクリとしながらも、圭はいつも通りの鷹揚のない口調をするように心掛けた。


「へー。名前で呼ぶなんて、随分と親しくされてるんですね。最近よくスマホを見てますけど、誰とやり取りしてるんだか。」


かおるのことを名前で呼んでいることに気づいていなかった圭は大いに慌てた。


「さ、冴には関係のないことだよ。」


冴とは長い付き合いだが、私生活の話しをしたことはほとんどないし、これからもする気はない。


「…そうですか。それは、すみませんでした。はい、髪の毛整いましたよ。せいぜい存分に、この研究室にとって利益になることをしてきてください!」


荒い口調とともに、圭の上着の肩のあたりを握って引っ張る冴。


研究室の体制や待遇に対して不満をよく口にする冴だが、その矛先が圭に向いたのは初めてだ。


何か言わねばと圭が逡巡していると、研究室に高野のよく通る声が響いた。


「お、来たな。お疲れ!」


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視線を向けた圭の視界に、深紅のマフラーが飛び込んでくる。


一瞬にして周囲の音が消え、見えるのは静謐な真っ白な空間に立つ、一人の女性。


彼女は圭がこの前貸したマフラーを身に着けている。


ベージュのフード付きロングコート、斜め掛けにした濃茶のバッグ、濃紺のパンツ、白いスニーカー。


ポニーテール。


初めて目にするカジュアルな服装と髪型。


彼女は元同僚にニコリとほほ笑むとすぐに、視線を周囲に漂わせる。


春の陽光の中、散っていく桜の花びらのように揺れる視線が、真っすぐに圭を捉える。


にやりと妖しい笑顔を一瞬浮かべた彼女は、恥ずかしそうに俯いた。


呆然と彼女を見つめていた圭、その笑顔がまるで出走を告げるピストルの合図かのように、弾かれたように席を離れ一直線に彼女の元に向かった。


目の前の空になった椅子を見つめ、寂しげに力なく項垂れる冴。


…、椅子の背もたれを力任せに握りしめると、意を決したように振り向き、研究室の入り口に立つ女性を睨みつけた。


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「かおるさん、お久しぶりです。」


圭は満面の笑みでかおるに駆け寄る。


「マフラー、よく似合ってます。服装も、髪型も、なんか、いつもと違って…。えっと…。とても…。」


勢いで賛辞を述べ立てようとするも周囲の目を気にして言いよどむ圭に、気恥ずかしくなるかおる。


今朝は身支度に時間がかかった。


取材だから動きやすい服装が良い。でも、カジュアルすぎて野暮ったくなるのは避けたい。


今まで見せたことのない服装を圭に見せて、印象付けたい。


圭に、魅力的だと思ってもらいたい…。


昨夜、クローゼットからありとあらゆる服を引っ張り出してようやく決めたコーディネートなのに、今朝改めて見るとしっくりこなくて選びなおした。


その甲斐があったのかしら…。気に入ってくれてるみたい。


嬉しさに顔が赤くなるのを悟られまいと、マフラーに顔を埋めるかおる。


今日の圭は、いつも無造作な髪が整えられ、肌の白さは変わらないものの生き生きと血色が良い。


眼鏡が知的で静的な彼女の魅力を一層引き立てている。


真っすぐにかおるを見つめる視線。


あの日、この瞳には様々な色が宿っていた。紅、緋、青…。燃えるような情欲と蕩けるような愛。


首元に、上半身の至る所に与えられた口づけの感触がありありと蘇ってくる。


あれから何度も何度も思い返した、官能的で幸福に満ちた時間。


もっと、触れられたい。


額にかかった髪を払ってもらうくらいの、ほんの少しの接触でいいから。


いま、すぐにでも。


もっと、触れたい。


その指先をそっと掠めるだけでいい。服の上から、その腕にほんの少し手のひらを乗せるだけでいい。


僅かでいいから、いま、目の前のこの女性に、触れたい。


いいえ、だめ。今は仕事だから。プロフェッショナルに徹しなくては。


現実から離れていきそうになる意識を取り直して、無理やり仕事モードに入るかおる。


「お久しぶりです。今日はついにテレビ取材初日ですね。よろしくお願いします。」


同じように茫然と甘い表情を浮かべていた圭も、その一言で目が覚めたように表情に精気が戻る。


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高野を交えて三人で今日の流れを確認していると、かおるは強い視線を感じた。


見ると、窓際に立つ若い女性がこちらを凝視している。


かおると視線が合うと、その女性は迷うことなく足早にかおるの方に歩み寄ってくる。


「初めまして。園田の後輩の助手で、河上冴といいます。」


挑むような視線。棘のある口調。


突然の冴の乱入に驚く圭。


「冴、取材は冴には関係ないから、自分の仕事をしていていいから。」


「関係なくはないですよね。同じ研究室でこれだけ騒がしくされてるんですから。」


かおるを冷たい目で見据える冴。


かおるは驚きながらも、柔らかな口調で冴に話しかける。


「事前に研究室の皆様にはご迷惑をおかけする旨をご連絡してはいましたが、直接ご挨拶をすべきですよね。大変失礼いたしました。


私、編集者の相馬と申します。長期的に園田圭さんを取材させていただくことにご承諾いただきまして、これから皆さまとも仲良くさせていただければと思っています。


初日から不快な思いをさせてしまって、申し訳ありません。」


「私、この取材に関して全面的な賛同はしていませんから。」


捨て台詞をはいて自席に戻る冴。


「す、すみません。あとで説教しますから、気にしないでください。」


「大丈夫ですよ!取材班はこういうことは慣れてますから。それに、美人さんは怒った顔も魅力的だから全然オッケーです。」


時代遅れな冗談を交えてその場を明るく取り成す高野。


かおるは冴の態度に驚きながらも、無視できない事実がそこに存在することに気づいた。


私に対する明らかな敵意。あの河上という子、きっと圭さんのこと…。


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取材は昼で終了した。次回はまた二週間後に夕方以降の撮影をして、いったん終了になる。


とはいえ長期的な企画だ。圭は冴の態度に、今後何かトラブルが起こるのではと。一抹の不安を覚えた。


取材班が後片付けをしている間に冴の元に向かう圭。


「冴、取材は終わったよ。今日はいろいろありがとう。取材のこと、ちゃんと共有してなかった私がいけなかったね。今度、食事でもしながら話そうか。私、おごるから、何でも好きなもの食べていいよ。」


優しく声を掛けると、冴は天真爛漫な笑顔を浮かべる。すべての感情がストレートで分かりやすいのはありがたい。


「ほんとに!?先輩から食事に誘ってくれるなんて、レアケース!いつにします!?私は今夜でも、いつでもOKですよ。」


弾けるような笑顔と、圭の腕に置かれた手。


そんな冴に自然体で接する圭。


かおるはそんな二人を遠目で見ながら、どす黒い泥のような感情が湧き上がるのを感じた。


圭さんに触らないで。馴れ馴れしくしないで。


圭さんの心は、目は、私だけのもの。


圭さんの特別は、私だけのものだから。


あなたなんかに、圭さんは渡さない。


ねえ、その子をそんな優しい目で見ないで。


私を好きだと、決して傷つけないと、何があってもそばにいると言ったのは嘘だったの?


あなたに心を開き、委ねた。毎日があなたでいっぱいだった。


あなたとなら、一緒にいたいと思った。


でもあなたには、長い年月毎日顔を合わせ、私よりもお互いを知り合ったその女性がいた。


心に闇を抱えて、面倒な感情と欲望で振り回す私より、あの子と一緒にいた方が、圭さんはシンプルで幸せな関係を築けるだろう。


感情が渦を巻く。


目の前が暗い。


足元がぐらつく。


…奈落の底に、落ちていく。


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フラフラと二人のそばに近寄るかおる。


「お二人はお似合いですね。お付き合いしたてのカップルみたい。」


圭を誰にも渡したくない。私だけのものにして誰にも触れさせたくない。


二人であの部屋に閉じこもって、永遠に愛し合っていたい。


でも、それは私のエゴ。圭さんには幸せになる権利がある。束縛は、できない。


狂いそうなほど熱い嫉妬の炎に呑まれることはできない。


「デート、楽しんできてくださいね。今日はありがとうございました。失礼します。」


状況を飲み込めず、虚無の色を浮かべて彷徨う圭の視線。


みるみるうちに血の気が引いていく顔色。


ねえ、圭さん。私の顔は引きつっていなかったかしら。二人の幸せを願う女を、うまく演じられた?


そんな顔をしないで。あなたは私なしで幸せになるべきだから。

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