スノードロップをあなたに

井ノ下功

呪いはこびりつく


 ある日、森の中。


「……死んでる?」


 男性が倒れていた。

 木にもたれていて、頭を深くうつむけている。茶色い髪が覆い隠してしまっているから、顔は分からなかった。


「血のにおい……駄目だわ、早くどうにかしないと、悪いのが寄ってきちゃう」


 死体は早急に始末しろ、とはお師匠様の教え。よくない精霊が寄ってきて、森のバランスが崩れてしまうらしいの。

 遠くからそっと窺ってみると、わずかに胸が上下していた。


「生きてるのね」


 少しだけホッとする。人が死ぬのを見るのは嫌いだから。

 でも、生きていたらどうするのかは、そういえば教わっていなかったわ。どうすればいいのかしら。


「ねぇ、あの……――っ!」


 呼びかけながら近付き、覗き込んで、私は息を飲んだ。

 あまりにも酷い怪我だったのだ。

 胸には斜めに大きな裂傷。

 顔は人相が分からないほど腫れあがっているし、吐しゃ物のカスみたいなものが口元にも胸元にもついていた。どこを見ても血でべったべたで、爪が残っている指なんか一本もないし、片方の足は曲がっちゃいけない方向に曲がっている。


「た、たいへんだわ……これじゃあすぐに死んじゃう!」


 血の気が引く、ってこういう時のことを言うのね。

 私は慌ててひざまずき、その人の手を取った。


(普通の人に使っちゃ駄目、ってお師匠様には言われてるけど……緊急事態なんだもの、仕方ないわよね!)


 両手で包み込んで、祈りを捧げるみたいに額を寄せる。


「『東の椅子を掲げたまえ、癒しの水を与えたまえ、治癒heal』」


 金色の光がふわりと広がって、その人の胸に吸い込まれていった。一番酷かった裂傷が少しだけ浅くなって、どろどろと流れ出ていた血が止まる。

 私の力ではちょっと塞ぐことしか出来ないけれど。


「これで、今すぐ死んじゃうってことはなくなったわ、よね?」


 あとは薬草とかそういうものでどうにかするしかない。

 お師匠様なら一言で治しちゃうのだろうけど、あの方がいらっしゃるのは一ヶ月後だ。


(それまでは、私がなんとかしなくちゃ――)


「アリエス!」


 呼びかけると、森の奥から綺麗な白銀の狼が走り出てきた。

 血まみれの男性を大きく迂回して、心配そうな声を出しながら、私に鼻を寄せてくる。よしよし、大丈夫よ。私は彼の鼻を撫でながら、その琥珀色の目を見つめた。


「ごめんなさい、アリエス。あとで綺麗にしてあげるから、この人を運ぶのを手伝ってくださる?」

「……くぅん」

「お願い」


 アリエスはしばらくの間嫌そうにしていたが、私がどうしてもと頼み込むと、ついに折れてくれた。

 二人で協力して、どうにかその人をアリエスの背に乗せる。

 ひっくり返して分かったけれど、背中の方にもたくさん傷が付いていた。

 まるでリンチされたみたいに――


「どうしてこんなになってるのかしら……って、考えるのは後ね。お願い、アリエス」


 アリエスは一声鳴いて、ゆっくりと歩き出した。



 小屋に戻ってその人をベッドに寝かせた。(私のベッドではちょっと小さくて、その人の足が飛び出てしまった。ごめんなさいね。)

 お湯が沸くのを待つ間、アリエスの毛皮を水で清めていく。


「『――風よ、風よ、優しい風よ、美しき人の髪を揺らして、花の香りを届けておくれ、ずっとあなたを待ち続け、スノードロップが咲いている。

  ――風よ、風よ、柔らかな風よ、愛しい人の銀の鈴を、小さな声を届けておくれ、今あなたの元へ帰りますと、小さな声で歌うのを』」


 口ずさんだのは古いうただ。お師匠様が教えてくれた、私の一番好きな詩。私はスノードロップが大好きだし、なんだかとってもロマンチックでしょう?

 アリエスが気持ちよさそうに耳を寝かして、ぱたぱたと尻尾を揺らした。


「よーし、これでいいかしら。どこか気になるところはない? 大丈夫?」


 アリエスは満足げに一つ吠えると、パッと小屋から走り去った。

 綺麗な白銀は流星のように木々の向こうへ消えた。それを見送って、私はすぐに取って返した。


「ええと、傷薬……薬草……あっお湯沸いた! ああ、それと布、なにか柔らかいの、どこだったかしら? ええと、ええと……熱っ!」


 慌てた拍子に鍋のふちを素手で触っちゃった。痛いなぁもう!

 私は火傷の痛みを我慢しながら、その人の手当てを進めていった。



「不格好だけど、とりあえずこれで大丈夫よね」


 一応傷口は全部綺麗にして塞いだし、薬も丁寧に塗った。薬が染みたのかうなされているのか、時々呻き声を上げたけれど、それって生きている証拠よね。だから少しだけ安心した。

 手当ての仕方をもっと習っておけばよかったわ……――いいえ、駄目ね。お師匠様にはそういうの向いていないもの。唾でも付けとけ、って言われるのがオチだわ。


「……お父様……より、ちょっとお若いのかしら」


 ようやくまともに顔を見られた――といっても、痣だらけだから人相はよく分からないのだけど。でも、四十歳くらいのように見える。


「大工さんかしら。それとも、鍛冶屋さん? 騎士……のようには見えないわね。お髭がすごいし、剣とか持っていないし、服もそんなに上等じゃないわ」


 筋骨隆々、って感じ。だからこそ、傷が生々しくて、怖いのだけれど。


「……ふぅ、なんだか疲れちゃったわ。ええと、小屋の結界を確認して、血を触ったからお清めをして、お夕飯を食べて――」


 ――あれ、私、今日はどこで寝ればいいんだろう?

 必要最低限のものしか置いていない小屋には、ソファなんてものはない。ベッドはお客様のものだ。


「椅子を繋げて……その上で寝る?」


 四脚あるから、私の身長なら足りるでしょう。

 毛布は予備があって助かった。

 私は簡単に夕飯を済ませると、椅子の上に横になった。




 案の定椅子から落ちて目が覚めたから、次の日から床の上で寝ることにした。床の上はちょっと寒いし硬かったけれど、三日もすれば慣れた。

 日課にお客様の包帯と薬の付け替えが加わった。最初は固まった血とか膿とかに手こずらされたけれど、それにも三日ぐらいで慣れた。

 お客様の容体は少しずつ良くなっていった。


「顔色……は、分からないわね」


 相変わらず痣が居座っているのだ。でもそれも、少しずつ黄色に変わっていって、腫れも引いてきている。


(良かった。助けられそうね)


 私の一日の終わりは、椅子に逆さまに座ってお客様の様子を眺めることになった。


(お父様、お元気かしら)


 お母様を見殺しにして私を捨てたお人だけれど。

 こうやって思い出しても、嫌な気分にはならないのがなんだか不思議だった。そうしなければならなかったって分かっているし、諦めもついているからね、きっと。

 今の世界じゃ、私たちを庇えばお父様まで殺されてしまうもの。


「……おやすみなさい、お客様。良い夢を」


 私は毛布にくるまって床に寝そべった。




 翌日の昼頃、お客様は目を覚ました。

 それがあんまり嬉しかったものだから、私は思わず歓声を上げてしまって、慌てて口を塞いだ。


「ごめんなさい、うるさくしちゃって。私ね、お師匠様にもそうやって怒られるの。お前は声が大きい上に、瞬発力がありすぎる、って」

「……」

「痛いところはないかしら? お腹は――空いてるに決まってるわよね。ちょっと待っててくださる? すぐにスープを用意するわ」


 かぼちゃとにんじん、それにじゃがいも。ちょっとのお塩で味付けしたポタージュが、昨日から鍋に眠ってる。それをよそって持っていく。


「熱くないかしら……うん、大丈夫そうね」


 お客様はまだぼーっとしてらして、自分で飲むのは無理そうだった。だから私は半ば無理やり、スプーンをお客様の口に突っ込んで、少しずつ少しずつ飲ませていった。

 よそった分が空になるまで、けっこう時間が掛かったけれど、食べ物が入ったなら快復だって早まるはず。

 お客様はまた眠りに落ちた。お髭に付いてしまったスープを拭ってあげる。


「明日は少しぐらいお話しできるかしら……」


 そうなったらいいのに、と私はちょっとだけ祈った。

 この方はどこから来たのだろう。

 どうしてこんなに怪我をしていたのだろう。

 そして、なんでこの森に入ってきたのだろう。


「……不吉な血塗れ魔女ブラッディの森なのに」


 近くの村の人は絶対に近寄らない場所なのに――どうしてかしら?

 気になって仕方がなかった私は、もう一度魔法をかけてあげた。早く治りますように、って。




 それから二日経って、ようやくお客様は体を起こせるようになった。顔の腫れもすっかり引いて、ペパーミントみたいなすっきりとした瞳が見えた。

 お客様はとっても柔らかい声をしていたわ。


「嬢ちゃん、あんた、一人で住んでるのか?」

「ええ、そうよ」

「どうして、俺を助けてくれたんだ?」

「だって、森の中で死なれてしまっては困るんだもの。具体的に何がどうなるかって、知らないけれど……お師匠様がそうおっしゃってたわ。だから助けたのよ」

「……そうか」


 お客様はしばらく考えるようにしていたけれど、やがてお髭の向こうの唇の端が持ち上がった。笑ったらしいのだけど、傷の影響かしら、なんだか歪んで見えた。




 お客様のお名前は、クリフさん、って言ったわ。

 クリフさんはお礼だと言って、立ち上がれるようになってからは家の中の力仕事を手伝ってくださった。薪割りとか、水汲みとか、そういうことを。とっても器用なお人で、壊れた椅子も直してくださったし、花壇も作ってくださったわ。裏庭の畑ももう一回り広げてくれて、暖炉も綺麗にしてくれた。

 お髭を剃ったクリフさんは、思っていたよりも若く見えたし、声から想像していたよりももっとずうっと優しいお顔をなさっていた。

 私の日課は半分以下になっちゃったわ。その代わりに、クリフさんのお洋服を繕ってあげたり、いつもより美味しい手の込んだ料理をしたりするようになったの。

 それと、クリフさんが薪割りをするのを、横から眺めるようになった。

 なんだかとっても不思議な感じがしたわ。だってずっと一人だったから。お師匠様はとってもお忙しい魔法使いだし、アリエスは優しいけれど狼だもの。人間が、大人の男性が近くにいるっていうのが、とても不思議で――心が夢の中みたいにフワフワしていたわ。


「ねぇ」


 夢じゃないのを確認するために、私はクリフさんに声をかけた。


「クリフさんっておいくつなの?」


 彼は律儀に手を止めて、ペパーミントの瞳を私に向けたの。汗がパッと散って、キラキラと光って見えた。


「三十……七、になったところかな」

「あら、そうだったのね! 私てっきり、四十を越してるとばっかり思ってたわ」

「正直者だな……普通そういうのはこっそり思っとくもんじゃないのかい」

「お師匠様に“しょうもない嘘はつくな”って言われてるのよ」


 クリフさんは逆さまにした斧の柄に寄りかかるようにして、首を傾げた。


「……その、嬢ちゃんがよく言う“お師匠様”ってのは、何なんだ?」

「お師匠様はお師匠様よ。私にこの家をくださって、森での過ごし方と、魔法の使い方を教えてくださったの」

「……魔法?」

「ええ――あっ」


 私はパッと口を押さえた。

 しまった、言ってしまったわ。絶対に言ってはいけないとお師匠様に言われていたのに。今の世の中では言ったが最後、無残に殺されるのだから――本当は魔女ではなかったお母様まで殺されるような世の中だから、って。


「ええと、ええと……」

「嬢ちゃん、あんたもしかして――……魔女、なのか?」

「っ……」


 私はスカートをぎゅっと握りしめて、うつむいた。

 もう駄目だ。おしまいだわ。クリフさんはきっと私を殺す――そうに違いない。手に持ってる斧で、私を殺すに決まってるわ! だってお母様は殺されたんだもの。椅子に縛り付けられて、川に沈められたんだもの。あんなに助けを求めていたのに、誰も助けてくれなかったんだもの。私だって同じように、泣いたって絶対に許してもらえないわ。出来るだけ苦しむように、殺されるに決まってる――


「こ、怖くなんてないわ! だって言ってしまった私が悪いんだもの! お師匠様も言ってたわ、俺の留守中に何があっても自己責任だ、って! さぁ一思いにやってちょうだい!」

「は?」

「で、でも、でも……わがままを言っていいなら……で、できるだけ、痛くしないでくれると助かるわ……痛いのは嫌いなの。苦しいのも。でも、そうね、斧でこうガンッってやってくれれば、きっと一瞬よね? ね?」

「……あんた何言ってんだ?」

「え?」


 クリフさんは眉を顰めて私を見ていらっしゃったわ。それから何かに気が付いたように目をぱちぱちっとさせて、気まずそうに頭を掻きまわした。


「ああー、そっか、そうだよなぁ。……とりあえず、落ち着いてくれ、嬢ちゃん。俺はあんたが魔女だろうがなんだろうが、殺そうだなんて思わねぇよ」


 私は言葉を失った。だって普通の人たちは、私たちのことを怖がって、嫌がって、石を投げてきたわ。だからお母様は殺されたし、お父様は私を捨てたのよ。


「ど、どうして……?」


 クリフさんは普通の人じゃないのかしら。

 だって、クリフさんが普通の人だったら、お母様はどうして殺されなくちゃならなかったの? お父様はどうして私たちを捨てなくちゃならなかったの?

 クリフさんは眉尻を下げて、困ったように笑った。


「俺は嬢ちゃんに命を助けられたんだぜ? 命の恩人を殺しなんてするもんか。安心してくれよ、な」

「でも……でも、それは、お、おかしいわ」


 私の声には涙が混ざって、変な風に飛び跳ねた。


「お、お母様は、お薬を……お薬を売ってたのよ。たくさん、病気の人を治したわ。そ、それに、救われた人は……命の恩人は、たくさん、いたはずよ。なのに……殺された……な、なのにどうして、わ、私は、殺されないの……?」

「それは……――」


 ふと、落としていた視線の先にクリフさんの靴が入ってきて、それから膝が入ってきて――片膝をついたクリフさんが、下から私を覗き込んだ。

 クリフさんは申し訳なさそうな顔をしてらした。


「それはな、嬢ちゃん。殺したいと思う人間が、近くにいるかどうかの問題なんだ。嬢ちゃんや、嬢ちゃんのお母さんがしたことが問題なんじゃない。それを見ている別の連中が、どう思ったかが問題なんだ。――理不尽な話だけどな。ああ、本当に、理不尽だ……」


 そう言いながら、クリフさんはそっと私の涙を拭ってくださった。クリフさんの指は太くて、ガサガサしていたけれど、本当に優しくて温かかった。その申し訳なさそうな微笑も、気遣いに満ちた声も、私にはすべてが初めてだった。

 こんなの知らない――知らないわ。だってお師匠様は教えてくださらなかったもの。世界にこんな、こんなに温かなものがあるだなんて。


「俺はあんたが魔女だからって、何もしねぇよ。あんたは俺の命の恩人だ、嬢ちゃん」

「――……ミリィよ」

「ん?」

「私の名前。ミリィよ。そう呼んで、お願い」


 私はクリフさんの袖口を掴んで、そう頼みこんでいたわ。なんだか胸がいっぱいで、たまらなくなってしまったの。

 だから。


「……ミリィ」


 一瞬心臓が止まったと思ったわ。それから世界がキラキラって、空から星屑をばら撒いたみたいに輝いたの。見間違いなんかじゃないわ、本当にそうだったのよ。それがあんまり眩しかったから、私は思わずクリフさんの胸に飛び込んでいた。

 彼はそうっと私の頭を撫でてくださった。ああ、どうして私は一番良い香油を付けておかなかったのかしら。せめてもう少し梳かしておけばよかった。

 私は私が宝物になった気分だったわ。ううん、本当にそうなっても良かった。小さな、本当に小さな宝石になって、彼の手の中に収まってしまいたいと思った。そしてずっと持っていてほしい、って――




 それから少しの間、クリフさんは私の傍にいてくれた。


 私がねだる前に私を抱き締めてくれて、私の他愛無い話を優しく聞いてくれた。

 同じスープを何度作っても、毎回初めて食べたみたいに褒めてくれた。

 一緒にスノードロップの種を植えて、咲くのが楽しみだ、って笑い合った。

 体調が良くなってから、彼はずっと床で寝ていたけれど、私がどうしてもって頼み込んで一緒のベッドに入ってもらった。彼にとっては少し窮屈だったかもしれない。けど、私はとっても安心した。クリフさんの温かい腕の中で目を閉じれば、もう何も恐れなくていいんだって心の底から思えたわ。


 でもね、ある朝、ベッドに腰掛けた彼はとっても寂しそうに笑ったの。


 行ってしまうんだな、ってすぐに分かったわ。


「ミリィ。俺を助けてくれて、本当にありがとう。――なぁ、君は、この森を――」


 言いさして、クリフさんは首を振った。


「……いや、君が出ていくのは間違っているな。そうじゃない……正すべきは、外の連中なんだ。ミリィは、何も悪くない……」

「クリフさん……?」


 彼は私のおでこを優しく撫でた。窓からの日差しは彼の首から下しか照らしてくれなくって、そのせいでしょうけれど、いやに暗い表情をしているように見えた。


「大丈夫さ、ミリィ。きっと、全部うまくいくから」


 立ち上がった彼の袖を、私は咄嗟に掴んでいた。


「……いつか、また来てくださらない? お師匠様は一ヶ月に一度しかいらっしゃらないの。だから、少し……少しよ。ほんの少しだけ……寂しいから……」

「……分かった、ミリィ。また絶対に来る」


 そう言って彼は私の手を取って、約束の代わりにそっと口づけをして――




 ――それきり、私はずっと待っているのよ。


 ずっと。


 あなたがもう一度来てくださるのを。

 あなたがもう一度私の頭を撫でてくださるのを。

 待っているの。


 スノードロップはもう何度も咲いたわ。

 あなたと一緒に植えた、あの花よ。

 あなたと一緒に笑って、綺麗ねって言いたいのに。


 あなた以外には会いたくないの。

 待っているのよ、あなただけを。

 初めて私に触れてくれた男性ヒト



 ねぇお師匠様。この気持ちを何て言うのかしら。どうか教えてくださらない? すごく温かくて、フワフワで、真っ白で、雲みたいでお日様みたいなの。綿毛よりもしっかりしていて、大きく息を吸ったら胸がぐーんて伸びて、本当に気持ちがいいのよ。お師匠様は知っているかしら? この気持ちの名前――




 ――ああ違うのよ、あなたたちみたいな知らないヒト、呼んでいないわ。あなたたちみたいな乱暴なヒト、私は――




 ――ねぇ、私、泣いているわ。

 また、この涙を拭ってくださらないかしら。ねぇ……。


 ……もう、お名前も思い出せないけれど。


 まだ待っているのよ。




 ずっと――あなただけを――






  †




「よお、戻ってきたか。魔女はいたか?」

「殺してきただろうな?」

「ハァ?! いなかった?」

「嘘をつくな!」

「お前には前科があるんだからな!」

「この間も怪しい奴を庇いやがって」

「やっぱ駄目だ。俺たちで森に行くぞ。――はぁ? 入るな、だって?」

「危険って何がだよ。ああやっぱり、魔女がいるんだな?!」

「どうして殺ってこなかった!」

「まだ嘘をつく気か、強情な奴め」

「魔女の手先に成り下がったか!」

「愚か者が!」

「裏切り者!」

「殺せ!」

「殺せ!」




  †




 魔法使いたちにとって、そこは麗しき輝きブライドリーの森だった。


 それは今、真っ黒に焦げ落ちてしまっていた。


 森に隠れていた醜い魔女を殺して火を放った、と誇らしげに語る声を聞いた。

 魔女が従えていた狼に噛まれたが平気だった、と愉快げに笑う声を聞いた。

 庇おうとした愚か者をバラバラにして川に流した、と得意げにする声を聞いた。


 その度、すべてをぶち壊してしまいたくなった。彼にはそれだけの力があった。

 だがその衝動をどうにか抑えて、森の中心部にまで足を運んだ。


「……ああ、畜生……」


 焼け焦げた死体を前に、魔法使いは立ち尽くす。

 自分を「お師匠様」と呼んで慕ってくれた少女は、今や全身真っ黒に焼け焦げて、見る影もなくなっていた。少女の傍には、護衛を頼んだ狼の亡骸もあった。


「こんな、怨念の塊になっちまって……」


 少女の執念が、執着が、色濃く残ってうごめいている。これは彼にはどうしようもないことだった。彼女はこの地を訪れる者たちを呪うだろう。影の茨を伸ばして首を絞め、黒いドレスを纏わりつかせ、喜び勇んで祟るだろう。本人にその自覚がなくとも、その悲しみは人の心を蝕んで、彼らを死に至らしめるだろう。


 自分がもう一日早くここに来ていれば。

 あの男が変に庇い立てしないで、ここに戻ってきていれば。


 あるいは本当に、そこに愛があったなら。

 男がここを出ていかずに、少女が出ていくことを許さずにいれば――


 ――すべて、意味のない仮定だ。


 彼は空を仰いだ。

 灰が舞った薄汚い空に、満月が白々と輝いている。


「――月よ。我が声を聞きたまえ。我は月光の守護者シェリが弟子、風の覇者ルーシャン。我が名のもとに、どうか世界よ、力を分け与えたまえ。

 ――月よ照らせ、風よ廻れ、この地に再び緑の息吹を運びたまえ

 ――ここに散りしすべての小さき命たちに、どうか安息を与えたまえ」


 両手を組んで祈りを捧げる。

 柔らかな風が吹いて、月光を遮る灰を散らした。


 重たい溜め息が落ちた。


「……いつになったら、魔法使いは堂々と生きられんだろうな……」


 その問いに対する答えはない。


 魔法使いはしばらくその場にいたが、やがて姿を消した。


 闇の中に、季節外れのスノードロップが揺れている――




      おしまい

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