第9話

 気づいたら次の演奏者も終わっていて、休憩に入ったようだった。まったく聞こえていなくて、葉子は我ながら呆然とした。ひとりの持ち時間は十分強あるので、少なくともそれくらいの時間は放心していたらしい。

 空気はいつのまにか変わっていて、日常のざわめきがそこにあった。上を見るとあの光は消えていて、――葉子はそのまま立ち上がった。交流のある先生たちと自然とホワイエで合流したけれど、どうにも心がここにあらずだ。まだあたたかい指先を握りしめる。絶対に一ミリ以上伸びることはない爪と、一曲弾いたあとのように血の通った指先を見ているとなんだかたまらなくなった。

 ――言わないと。

 焦りは極力顔に出さず、葉子はさっとあいさつをしてホワイエを出た。そして出たところで立ち止まった。いやまてまて、出てどうする、どこへ行くんだわたし。行き先を見失ったパンプスの先が、弱いコンパスのようにゆらめく。――と、

「あ、先生」

 声がして振り向く。果たして数歩先に立っていた颯太は着替えたばかりという風情で、肩には楽器ケースをかけ、手には着替えを入れているのだろうと思えるカバンを持っていた。しびれるほどの、切迫するような緊張感はもう彼のまわりにはない。

「颯太――」

 ほっとして、思わず口をつく。

「おめでとう」

「え」

 颯太は首を傾げた。

「なにが?」

 葉子ははっと口に手を当てた。あれ、わたし何を言ったんだ。まだ結果は出ていないというのに。どう言ったらいいものか数秒逡巡した挙げ句、葉子は言った。

「……わたしが言いたかっただけなの」

 言うと、そうだという気がした。先ほど言わないと、と思ったのはきっとこれだったのだ。葉子がほほえんで言うものだからか、相手もつられたように笑んだ。

「うん――ありがとう」

 過信はしていないだろう。でも、おそらくすでに主科の山下先生からも演奏後に講評はもらっているはずだし(山下先生は審査員ではなく、さらにレスポンスが早いと聞いたことがある)、手応えも自覚しているだろう。だからこその返事だと思えた。

「先生もありがとうね、みっちゃんの伴奏、かなり見てくれてたでしょ」

 葉子はまたたいた。

「三谷から聞いたの?」

「いや、なんとなく」

 葉子がまだぱちくりしていると、今度は少しはにかむように、颯太は笑った。

「俺が要求した部分もあるけど、それ以上になんだろうな、合わせをやってて、ああこれ先生の教え方だなって思うことがあった。たとえば……裏拍の取り方とか、ちょっとしたところなんだけど」

 確かに葉子は三谷のレッスンで彼の伴奏を指導した。留学時代にニーノ・ロータのコンチェルトの伴奏をした――というか、しかけたことがあった。その時は時間の関係でそれよりも三分ほど短いリムスキー=コルサコフのコンチェルトに変わったので、本当は「やっていない」と言えるくらいだが、楽譜を持っていたのを思い出したのがあの風邪事件の日だ。

 一次試験までは三谷から相談されたときに対応していたが、楽譜を見つけてからは自分でそれをさらい、積極的にレッスンに取り入れた。自分でも遅すぎるのではないかと反省はしている。

 楽譜がないなら取り寄せ、楽曲分析をして、自分で弾いてみて、音源を研究して……と、主科のレッスンのように徹底的にやるべきだったのだ。

 とはいえ驚いた。たしかに三谷の伴奏レベルはかなり上がったが、そんなにわかるものなのだろうかと葉子は感心した。こちらが相手のコンディションがわかるように、颯太もそういう感性を持っているのだろうか。

「先生いつも言うでしょ、オケを想像するようにとか、ブレスのタイミングを考えてとか。そういうのが三谷夕季の伴奏にはあったように思う。――ひとりで吹いてるんじゃないんだなって思った」

 胸が熱くなるようなひとことに、葉子は軽く息をのんだ。こちらは見返りという見返りは求めない。大学生ともなると受け手の裁量が大きいものなのだ。それでも。

 なにかを伝えようとして、それが直接の言葉ではなくても、届くことがあると――やはり音楽はそういうものなのだと。

「……担当講師としてやれることをやっただけだよ」

「うん、知ってる。でも嬉しかったよ。いっしょに演奏してるみたいで」

 葉子はまたたいた。もしかして、と思う。

 もしかして、あの時できなかったことが、間接的に叶ったのだろうか。

 留学中にできなかったニーノ・ロータのコンチェルトを、もしかしたらわたしは、二人の生徒を通して実現できたのかもしれない。

 だとしたら、――なんと講師冥利に尽きるのだろう。

 人生は短い。この時間の中で弾ける曲など本当にわずかだ。だからこそ講師は生徒に曲を託す。生徒は自分のうつし鏡のようなものだ。彼らの演奏を育てることで、自分の演奏もまた育てている。講師になって、なぜ先生たちがあのように熱意をもってレッスンをするのか本当の意味でやっとわかった。

 時間もすべて音楽だ。先人たちが紡いできた音楽は決して、ひとりきりで演奏するのではない。楽器がすべて地続きのように、人の中にある音楽もまた、時間の中に溶けて生き続けていく。

 颯太の演奏中に見えたあの光がまた視界をよぎったような気がした。冷えた空気に触れた水が雪になるように、あれはきっと、そういった思いや時間がふと何かの拍子に見えた瞬間なのだろう。

「そうだね」

 そう思えば、葉子は自然と笑みをこぼしていた。そんな葉子を颯太はあらためてまっすぐに見る。

「結果出るの、例年通りなら来週中だよね」

「うん、そのはず」

 目線を上げるとまたあの日のように、瞳に橙が映っているのが見えた。見覚えがあると思ったら、――そうか、舞台の上で光を集める彼の楽器の色に似ている。

 葉子はふと思った。確信だった。

「大丈夫だよ」

「え?」

「わたしは審査員でもなんでもないけど、いいものとそうでないものの区別くらいつくから。大丈夫、受かると思う」

 颯太は驚いたようだった。橙が弧を描いて光る。

「担当講師の欲目だって言わないでね。まあ副科では事実そうなんだけど。でもそれ以上に、なんだろうね……」

 葉子はほんのすこしだけ言葉を探した。空気はまた一枚、夜に近づいている。

「わたしが音楽の神様なら、絶対にさっきの演奏で恋に落ちると思う」

 颯太は驚いたように黙り込んだ。遠くに生徒の雑談の声がする。力が抜けたのか、カバンが地面につきそうになっている。颯太は少しためらって、どこか怪訝そうに言った。

「……先生って、よくためらいもなく言うよね、そういうこと」

「あ、また変なこと言ったと思ってるでしょ」

 レッスンでもこんな感じだからなあ、と葉子は笑った。

「でもほんとだよ。大丈夫、これでも伊達に三十一年、音楽と生きてきたわけじゃないんだから」

 カバンを拾うと、はいと差し出した。やはり服なのだろう、左手で持っても大きさのわりに重さはあまり気にならなかった。楽器は大事に、彼のそばに寄り添っている。

「――先生」

「うん?」

 差し出されたかばんを受け取るとき、颯太の親指が触れた気がした。左手の四の指を軽くなぞるように。

「来週、レッスンあるよね」

「うん。今年度、最後の一回になりますよ」

「その時さ、言いたいことがあるんだ」

「えっ、こないだ副ピの先生変えないって言ったよね?」

「そっちじゃないよ」

 思わず動揺した葉子に颯太が笑う。

「もっと大事なこと」

「……特待の結果がわかったあとがいいの?」

「うん」

「そう……」

 腑に落ちていない様子の葉子に、颯太は小さく笑ったようだった。

「これ、ありがとう」

 握り直す際にもう一度同じ場所に触れた気がして、葉子はかすかに腹の底がふわりとするのを感じた。颯太は左に背負った楽器ケースをもう一度きちんと抱え直し、じゃあ、と言った。逆光になってシルエットのまわりに光が散ると、舞台の上の姿を連想させた。

「じゃあね先生、また来週」

「うん、来週ね」

 いつものあいさつを交わして、葉子は生徒が坂をおりていくのを見送った。楽器を抱えていると、やっぱり今日も「ひとり」に見えると思う。でもそれは、孤独という意味ではない。

 すがすがしい気持ちで葉子は空を見上げた。来週はなんの楽譜を持って行こう。シューマンはどうだろうか。例えば『子どもの情景』、あれを颯太ならどんな解釈をするだろうか。「言いたいこと」は気になるけれど、おそらく悪い話ではないだろう――彼はきっと、最後の特待生試験にも受かるだろうから。

 レッスン前特有のわくわくした、ざわざわした気持ちが同居しているのを感じる。またあの部屋で会えるのが楽しみで仕方がない。

 空はあの日のように橙に沈みかけながら、今日も変わらず彼らの音を待っている。


[了]

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橙にふれる 山本しお梨 @yamamoto_shiori

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