第8話

 講師をしばらくやっていると、ひと目見た顔つきだけでその日の生徒のコンディションがわかるようになるものだ。舞台上に出てきた江藤颯太は非常にニュートラルだった。気負いがないというよりも、――むしろ、舞台上で戦うこと自体が自然であるかのようだった。気負いがないようでいて、誰にもつけ入る隙を与えない。

 前の奏者が終わり瞬間的に緩んでいた空気が再度ぴりりと引き締まったのがわかる。葉子ようこももう一度、無意識に背筋を伸ばした。弾くときのようにわずかに胸を開く。胸骨が共鳴したがっているのがわかる。細胞がざわつく。ああ、すでに空気がちがう――

 ニーノ・ロータ作曲、トロンボーン協奏曲、ハ長調。

 映画『ゴッドファーザー』などの映画音楽から、近年ではフィギュアスケートでよく使用される『道』『ロミオとジュリエット』などの近代曲を作ったイタリア人作曲家のコンチェルト。

 そっと楽器を構えるしぐさが妙に色めいている。とくに管楽器は奏者の息を吹き込むものだ。まるで恋人に顔を寄せるようで、自分の楽器を大事にしている人にしか出せない色だな、と葉子は毎度のことながら感心した。

 三谷が颯太の背中を見る。ここから目を合わすことなく、体から伝わるすべてのしぐさを読み取って音を合わせなければならない。伴奏者から、客席から、すべての視線を一身に受けて颯太はほんの数秒、空気と自分を調律する。

 楽器に息を吹き込む音すら聞こえるような静寂。そして。

 音の跳躍から始まる第一楽章は一聴するだけではハ長調とはわからない。これは全楽章にいえることで、そのためオーケストラ部分を担当する伴奏にも相当な技量が求められる。

 近現代らしい一筋縄ではいかない和声をトロンボーン、ピアノ双方が奏でる。リズムのかけあい、軽く跳ねて繊細な表現が求められる旋律。トロンボーンにしかないスライドの動きがライトの光を弾く。このピアノには決してない色合いを見るたび、艶めかしいなと葉子は思う。

 ともすると重苦しくなる第二楽章。最初は伴奏しかなく、世界観の構築はピアノに委ねられていると言っても過言ではない。思わず葉子は息を詰めた。指が動きそうになるのをこらえる。

 そうして伴奏にそっと入ってきた主旋律はどこか甘やかだった。第一楽章であれほど震わせたベルが今度はふくよかなふくらみをもった旋律を奏でる。上昇するメロディ、緊張感、そして解決をしめす音。高音でゆるやかにメロディを紡ぐ間、ピアノはワルツのように踊るリズムを刻む。胸がどんどんざわめきはじめる――共鳴しはじめる。

 そう、そうだよそれだよ、と葉子は拳を握った。そうそのもっていきかた。左手の使い方、それだとソリストがのりやすい……!

 第二楽章の山場である場所――音の上昇と緊張感、二度目の頂点こそ、カタルシス――

 音が天井に弾けたのが見えた。その瞬間、ぐらりと視界がかしいだ気がした。あれ、と思う。なんだろうこれ。

 まるで、と葉子は思った。自分が弾いているかのように目の前に鍵盤が見える。おかしいな、弾いてるのは三谷のはずなのにと思うが、自分の求めているタイミングやブレスの位置、音量、圧、タイミングがすべて一致する――自分が弾いているかのように齟齬がない。

 体から感覚が浮いているような妙な、でも心がむずむずする心地よさを感じたままトロンボーンの音色が天井の奥に吸い込まれていった。

 第三楽章はまた一転して明るく軽やか。オーケストラを伴奏に主役が跳ね回る。きかん気の強い少年を思わせる明るさと跳躍。伸びやかな高音。かと思えばスライドを一切させずに倍音だけでアルペジオを奏でるカデンツのなんとうつくしいことだろう。和声の移動が音の方向を決定づける、そのことをよく理解しているからこそ単なる音の並びがこんなにも胸をさざめかせる。

 ベルが上向きに輝くファンファーレを経て伴奏がいっそう華やかになると、まるで古典のような重厚さと愛らしさが同居する。縦横無尽に駆け巡る主旋律。最初からこの曲が“こう”であることを知っているかのように、全部に齟齬がない。

 走馬灯とはこんなものなのだろうか――今までの時間が脳裏によみがえってくる。注意しすぎて葉子自身が落ち込んだ日、ほとんど弾きもせずに雑談に笑った日、うまくできたとはしゃいだ日、特待生試験に受かったとお互いの手を叩いた日、――無防備に眠る姿と、その奥の橙に光る空の色。

 そうだった、一緒にここまで来たんだった。そう思うと胸が震えた。

 ひとりじゃないんだ。音を鳴らすとき、その板の上にいる自分はひとりきりだと思っているとしても、その音楽が真摯であればあるほど誰かの胸に届く――今のわたしのように。

 胸骨は彼の音に導かれ、細かく細かく震えて体じゅうの細胞すべてに音を届ける。呼吸がどんどん楽になると同時に、この音をこの世の最後の音にしたいとさえ思う。――この音で死ねたら、どんなにしあわせだろう。

 メロディはどこまでも甘く晴れやか。そしてこの楽器の中低音の色気はなめらかで、葉子のおなかの奥をしびれさせる。葉子は天井を見上げた。ああ、いる、あのきらきらした光が。

 それをうまく言い表すことはできないが、――それは絶対に、正解の音のときにしか見えない。きらきらとした雪の結晶のような光。

 音が舞台ほど遠くには聞こえない。まるで隣で弾いているかのような心地よさに、思わず手のひらをそっとあわせて息を呑む。――そうだよ、これは祝福なんだ。

 颯太。葉子は呼びかけた。颯太、この音楽はきみのものだよ。この舞台も、この伴奏も、この世界すべてがきみのものだ。

 この舞台は、きみを祝福するためにある。

 圧倒的に孤独な音楽の世界で、ほんのわずか、人生で何度かだけ出会える瞬間。わたしがわかるなら、きみにもわかるはずだよ。

 高音が伸びやかに響き、そして心臓のど真ん中を射るようなハ長調の主音。残響を肌に感じながら音は消えた。

 ほのかに熱くなった指をにぎりながら舞台を見ると颯太と三谷が揃ってお辞儀をするところだった。スライドがライトを反射したようすがまるで太陽の光を集めたようだ。颯太は三谷にひとつうなずいたようだった。始まる前と同じように気負いのないようすだったがそこにほのかな笑みを認めて、葉子はもう一度天を仰いだ。まだ光は舞っていて、まるでステンドグラスから降り注ぐ陽光のようだと思った。

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