第7話

 舞台袖からの景色は好きだな、と思う。自分がいるところは暗く、ひんやりとしている。そしてそのドアをくぐれば一転、光が煌々と満ちた白い舞台だ。

 しかし、そここそが、あの崖そのものでもある。

 最初にここに立ったのはいつだっただろうか。いまだ鮮明に覚えているのは中学の市の音楽会だ。たまたま校区だったというだけだが、通った中学校が有数の吹奏楽強豪校だった。そこで楽器と出会って、部活の楽しさを知った。転機は中二のときにやった曲、『マゼランの未知なる大陸への挑戦』だ。

 部活は苦しかった。曲の編成も大きいし、曲自体も難しい。デュナーミクの大きさと比例する表現力に音を上げる者も少なかった。文化部とは思えない体育会的な練習は秋の暗い宇空の下で続き、十九時になっても帰れない日もあった。でも――

 それぞれの楽器がそれぞれの役目を果たす。ひとつずつの音はちがうのに、見事に調和した音は空気を振動させ、まるで本当に目の前にマゼランの見た海が広がるかと思えた。音は洪水となり自分そのものを飲み込む。木管も金管も打楽器も境目はなく、すべての中で自分が音の一部になったようで、幼いながらにこれが宇宙のあり方なのではないかと思った。飲み込まれそうな音の奔流の中、果てしない緊張感と、それぞれの旋律がからみあい、――そこには日常を超えた世界があった。

 自分の原体験はきっとこれだろう。それから高校も県内でもっとも強い吹奏楽部があるところを選んでまた練習に明け暮れた。あんなにも苦しかったのにどうしてやめなかったのかと問われたら、やはり答えはひとつしかない。

 そこに居たい。その緊張の中で、息苦しさの中で、胸を張ってこれが自分の音楽だと伝えたい。

 マウスピースと楽器が冷えないように定期的に息を吹き込んでいると、かたわらで三谷みたに夕季ゆうきが指をほぐしているのが見えた。ああ、そういうところ、葉子先生の門下生なんだなと思うとすこしだけ胸のつかえが軽くなった気がした。

 壁の向こう側からトランペットの甘く、まろやかな音が空間を震わせているのがわかる。トランペットは言わずもがな、金管だけではなくオーケストラでも花形だ。そこに毎回真っ向勝負をして今回が大学四年間での最後。相手も楽器のプライド、自分のプライドにかけてと思っているに違いない。

 いつもなら横で凪いだような雰囲気で立っている六花りっかは、いまはいない。でも、と颯太は思った。

 これまでの彼との時間がある。自分自身がが学んだ先生たちとの時間がある。でも――さらにそれをひっくり返す「でも」があるとしたら、それは音楽の神様だ。

 練習は裏切らないが、音楽の神様はそれだけじゃ振り向いてくれない。

 いつも気まぐれで移り気な音楽の神様の視線をがっちり掴む、そんな音楽が必要だ。

 まなうらに浮かんだのは副科ピアノ講師の顔だった。同じようにこの試験を乗り越えてきたあの人も、同じように振り向かせてきたはずだ。だったら、自分は絶対に成し遂げないといけない。

江藤えとう

 声をかけられそこではじめて前の奏者の演奏が終わり、すでに袖に戻ってきているのに気づいた。金色に輝く相棒をもう一度そっと抱くように引き寄せた。

 さあ、いこう。――あの崖が呼んでいる。

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