第6話
特待生試験の二次試験、いわゆる本選にあたる試験は学内のホールで行われる。
通常の後期試験を終え自由な時間は増えているはずなのに、公開講座と並ぶほどにホールの座席は埋まっている。――これが本選だ、と葉子はホールの後方の重い扉を開けて見えた景色に思った。
会場の雰囲気は毎度のことながらいっそ異様だ。物見高い生徒たちの妙な熱気が会場に充満しているような気がして、毎度のことながら葉子はすこし肌に違和感を覚えた。――おそらくこれが、特待生試験をいやになる理由なのだ。
ピアノ・金管楽器・木管楽器・弦楽器・打楽器・声楽。それぞれの実質学年一位を決める試験。一次試験ではそれぞれに三人から五人ほどの受験者がいたはずだが、この二次試験に進めるのはほぼ二人ずつ。それぞれの分野における、ほとんど一騎打ちのようなていを成しているがこれもまた毎年のことだった。
葉子はホールの上手、やや後方よりに座席をとった。これはほとんど癖のようなもので、ピアノの場合は(頭上に二階席などがかぶらない限り)この場所が一番音が聞き取りやすい。他の楽器の先生たちもどちらかというと後方の座席にそれぞれ陣取っている。前方席を選ぶ生徒はそのへんがわかってない感受性の持ち主だな――と、すこし意地の悪いことを思った。
小野先生のショートカット姿は真ん中ほどにある審査員席にあった。――総勢で今日は七人。この人たちがこの試験に臨む生徒のここから一年間の運命を握っている。
――あらためてぞっとする。自分や家族の運命が、直接関わりのない大人たちに委ねられるのだ。座席のベルベットのワインレッドと木枠が視界にゆらめき、世界を赤く染めるように見えて、葉子は目をつぶった。脳裏にえがくのは、あのうつくしい白と黒――ピアノの鍵盤。
この世界はかならずしも善意だけでできているわけではない。いまここにも悪意はあり、世界は激しく揺れる振り子のように不安定で、渦中に吹き荒れる風に負けまいとしているのが受験者たちだ。
どれほどの不安か――どれほどの恐怖か――どれほどの高揚か――どれほど切望する未来か――。
そっと瞳を開くと、仄暗い客先と対照に実は熱いほどの熱量をもつライトの下、舞台は板の色を反射して白く光るように見えた。葉子はじっとそこに鎮座する大きな筐体――グランドピアノを見つめた。
その先にあるものがどちらだとしても、答えはそこにしかない。
でももし、本当に音楽の神様がいるのだとしたら。
無意識に指先をもんだり、指を広げたりしていることに気づいてひとりで小さく苦笑した。これは弾く前にやる運動だ。自分が知らず、臨戦態勢に入っていることに気づく。
――いや、それでいいのだろう。気持ちというのはかならず伝染する。この小さなこころの動きすら波――音がそうであるように――となって相手に届くことだってあるかもしれない。
そうすればからなず――かならず、舞台上に白い光が降ってくるだろう。音楽の神様は、呼ぶちからが強い者にこそ振り向いてくれるのだから。
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