第5話
数週間ぶりに帰宅した弟に姉は酒を進めてきたが、風邪引いたから帰ってきてるんだから、と突っぱねて、
部屋のようすは前見た時から変わっていない。がんばれば電車で通える距離なのに一人暮らしをさせてもらっていることに本当に感謝している。
頭痛はあるが寒気はないな、と自分の状態を確認する。以前耳鼻科にかかった時も言われたが、こういう場合は風呂に入って体温を上げたほうがいい。チャットの内容も思い出しながら、手早く、しかししっかりとあたたまると薬を飲んですぐに布団にもぐりこんだ。
『だから、とにかくおいで』。本当はあの続きがいちばん好きだった、と言ったらどうするだろう。
――わたしとしてはとにかくピアノをすこしでも好きになってくれたら、こんなに嬉しいことはないよ。
てらいもなく続けられた言葉には、そうか、と当時の自分の価値観を覆す力があった。
そうか、嫌われることもあるんだ。自分はたんに受験や単位に必要だからと、それだけで受験期を乗り越えたから、嫌いというよりもむしろ無味無臭なのがピアノだった。嫌いでも、好きでもない。ただ必要だから存在しているのが、副科ピアノだ。
でも、自分にとってトロンボーン――あのうつくしいスライドの直線と曲線、そこを自在に、無限に操って音を描く楽器がそうであるように、ピアノを愛している人がいる。その人が願うのも、自分と同じように自分の楽器が愛されることなのだ。
すこし、というかだいぶ反省した。特待生で入れたし、
他の生徒が副科ピアノを暇だ、要らない、めんどうだと嘆く中、
わたしも知らなかったんだよね小四まで、和音が出せるのが基本的にピアノくらいだって。と苦笑いしながらおあいこだと言う葉子は、だから、と続ける。
だからね、こう考えるといいの。世界はもともとひとつで、音楽ってひとりでは抱えきれないくらいにあるんだね。だからみんな役割分担をしてそれぞれに等しく楽器を持っているだけなんだ。そう考えるとたとえばこのソナチネの楽譜、ぜんぶ一回オケに置き換えてみたら面白いと思わない? ここはたぶんピッコロ、ここが弦。この休み方はGeneral pause(総休止)、そしてこここからがtutti(全員で合奏)。だからここの左の和音はこうやってバランスを見ないと主旋律が映えない――
へたなアナリーゼの授業よりよっぽどアナリーゼらしい、ある種哲学のような副科ピアノのレッスンに、自然とこの人に伴奏して欲しいと思えた。合わせたらどんな音がするんだろう。何度も何度も思う。
それにしても、今日のは面白かったな。チャットの履歴を見ながら思わず笑いこぼす。あんな二回もダッシュする先生、はじめて見たかも。
本人は青い顔をしていたが、素直に嬉しかった。しかも特待生試験のことを気にかけてくれていた――たぶん自分が自覚する前に気づくのが葉子だ、と颯太は思っている。それが葉子の経験則から来たものだとしても、ひとりではないと思える、ちょっとした拠りどころになっているのは事実だ。
舞台に行けば、たとえ伴奏者がいたとしても自分たちはひとりだ。ピアノはもっとそうなのかもしれない。けれどそこに同情などはない。
自分たちが立つ場所はいつも強い風の吹きすさぶ海の上の崖のようで、踏ん張らないといつ落ちてしまうかもわからない。それでも音ともに生きていけるのはもしかしたら、六花や一夏、葉子のように同じように崖に立っている人がいると知っているからではないか。
でもその場所は、自分のものだ。――誰にも渡したくない。
あの緊張を、あの息苦しさを、あの高揚を、あの目眩のするような景色を他の誰かに渡すくらいならきっと今ごろ楽器を手放しているだろう。
他の誰のものでもなく、そこで音を奏でられるのは自分でしかないと、証明したい。
その中で淡い大地のようにつながっているのが楽器、楽譜なのだ、と、うとうとしながら思った。
どの楽器も孤高であっても孤独ではない。ピアノもトロンボーンも、トランペットもヴァイオリンもピッコロもトライアングルもすべてが地続きなのだ。墜落の恐怖におそわれながらもそこを渇望し、そしてそんな仲間がこの世界にいる。なんて理不尽で調和のとれたうつくしい世界だろう――
目を泳がせて否定する葉子の姿がまなうらによみがえる。正直ほっとした。特待生試験が終わったらその足で言おう、と思ったのを最後に、颯太は深い眠りにおちていた。
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