第4話

 夕方の電車はやはりそこそこ混んでいて、座れる座席はなかった。まだそんなにきついわけじゃないから、と颯太は軽く流し、楽器とリュックを体の前に移動させてドアの少し横にスペースを確保した。

「あーでも、明後日、六花りっかに誘われてたやつ断んなきゃ……相手方に迷惑かけたらやばい」

 葉子が名前に反応したのを見てとると、颯太はちらと笑った。

「月に一回くらいは会ってるよ」

「そうなの」

「うん。六花の紹介でいろんなひとに会えるし……六花も紹介で知り合ったみたいなんだけど、そういうところに声かけてもらえるのは嬉しいよね」

 詳しくはわからないが、想像はつく。楽器で食べていきたかったら、コネクションが必要だ。そしてそれは実力ある者にしかもたらされない。

「きみらのコンビが解消するのは、見ててなかなかに寂しいものがあったしね」

 葉子が言うと、「藤村と江藤の藤藤コンビね」と颯太はおかしそうに笑った。

「解消はしたけど交流は今までどおりだよ。というよりは、もうちょっと実践的になったかも」

 数年後に復活できるといいなー、と窓の外に向かって言う生徒の横顔を、いい顔だなと葉子は思った。学外からも刺激をもらえるのは学生として重要な部分だ。

「今度の特待受かったら、院を本格的に視野に入れようと思うし……」

 ほとんど独り言のような言葉に視界が揺れる。

「……院は、うち?」

「うん。主科はやっぱ山下先生がいいし。そのぶん外部のコネどうしようかと思ってたけど、結果六花のおかげもあって今のまんまが良さそうって思えてきた」

「うん」

「あとは、まだ葉子先生に習いたいし」

 葉子はまたたき、そして笑った。院では副科ピアノは必要ないはずだしそれを颯太も了承しているはずだけれど、その言い方が何となく嬉しかった。

「生徒が減らなくてよかったよ」

「うん。……今度はひとりだから、余計がんばらないと」

 ひとりとは、という視線に気づいたのか、マスクの上の瞳が笑った。

「『伴奏に藤村がいるというアドバンテージがなくても勝てる』って証明できるのが、今回の特待生試験」

 瞳に夕日の色が入る。あの時と同じだ、と思った。強い色だ。どういうやっかみにも負けないでいようとする表現者の色だ。しかも、勝てる、と言う。確定しているかのような言葉を好きだなと思い――こういう言霊は板の上で勝負する人間には必要な要素だ――葉子はすこし考えこんだ。

 結局乗り換え駅で二人はわかれた。葉子は家まで送ろうとしたが「本当は送られないといけないのは先生のほうなんだから、ここまででおあいこ」と言われてしまった。なんだろう、この子もしかして結構もてるのではないかといまさらながらに思いながら葉子は帰路についた。その間じゅう気になっていたのは「ひとり」という言葉だった。

 スーパーで買い物を済ませて帰宅する。ただいま、と癖のままに言うとスマホが通知で光った。見ると『帰宅しました』という颯太からのチャットだった。今度は待ち受け画面ではなく、アプリを開いて全文を確認する。

『途中までだけど心強かったです。ありがとうございます』

『入れそうだったらお風呂入ってあったまったほうがいいよ』

 すぐに既読になった。

『先生も家ついた?』

『さっき着いたよ。わたしも大丈夫だから、早めに寝なさいね』

『はーい』

 続いて布団に潜るキャラクタースタンプが来た。自分の学生時代ではあまり考えられなかったやりとりに思わず笑ってしまう。

 葉子はスマホをテーブルに置くと買い物の荷物を手早く片付け、そのままクローゼットを開けた。洋服とはちがう一角は、楽器の横に入らない楽譜がおさまっている棚だ。そこにある楽譜を出し、何冊かを引き出す。そのうち一冊の中身を確認し、葉子は驚いたように目を見開いた。自分の記憶違いかと思っていたが――

「すごい……あった」

 まだ自分の門下には特待生試験に挑戦するような生徒はいない。試験に立ち向かうには戦略が必要だが、それには年季が多く関わってくる。だが、だからといって何もしないのはちがう――そう、特待生試験に挑戦する生徒はいる。主科ではなくとも。

 ――『伴奏に藤村がいるというアドバンテージがなくても勝てる』って証明できるのが、今回の特待生試験。

 生徒への距離感などは人それぞれだろう。自分にはこれが無理のない「先生」の姿だというだけだった。でもどの講師にも共通していることがある。

 生徒の味方であること。勝負に勝たせること。――そのために、ひとりにしないこと。

 しゃがみこんで楽譜を眺めていた葉子はひとつ息をつくと、よし、とつぶやいて立ち上がった。

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