第3話

 その週末。いつもなら今の生徒が出ていくのと入れ違いに部屋に入ってくる颯太の姿がないことを不審に思っていると、スマホの画面にSNSの通知があることに気づいた。レッスン中は見ないため気づいていなかったが、――『すみません、今日は休みます』という文字とその名前を認めた瞬間、葉子の心臓がぞっと冷えた。ほとんどなにも考えずに連絡先を開き、そのまま電話をかけた。数コール待つと、『はい、もしもし』という声がすこし遠く聞こえた。

「先生ごめん、ギリギリになって――」

「颯太、今どこ?」

 みなまで言わせず、葉子は早口で言った。

「え、もう帰るけど」

 耳元に当惑した様子の声が届く。ああじれったい。

「先生、メッセージ見たの――」

 声に重なったのは聞き覚えのある雑音――あの会話――教務課の前だ。

「颯太、そこにいて」

 返事を待たずに葉子は電話を切り、部屋を出た。三階からエレベーターを使わずに階段を駆け下りる。昔より断然ヒールで駆け下りることが怖くなっていることもすっかり忘れた。そうして教務課の掲示板の前に見慣れた背格好を見つけた。

「颯太!」

「え、まじできた」

 軽くあとずさる姿に勢いを止めずに葉子は彼の右腕をつかんだ。「なんかあったの」

「なんかって――」

 今度こそ颯太は当惑したようだった。

「先生やっぱメッセージ見てなくない?」

 え、と間抜けな声がでた。スマホはまだ右手にある。

「風邪引いたから休む――って書いてたけど」

 葉子は今度こそ大きく息を吸った。たぶんひどい顔をしていたと思うがこのときは考えられなかった。息を吐きながら、ほぼ無意識にへたりこむようにしゃがみこむ。

「かぜ……?」

「うん。先生言ったじゃん、『風邪引いたらレッスンには来るな』って」

 たしかに言った。あたらしく受け持つ生徒にはかならず最初に言う。「わたしひとりが倒れると、生徒全員に影響するから、風邪を引いたら迷いなく休みなさい。成績には影響しないから」――これは完全に小野先生の受け売りだが、実際にそうなのだ。教える立場になるとよくわかる。

 そうか、と葉子は急にダッシュしたせいでチカチカする視界の中で思った。そうか、わたし、待ち受け画面の通知欄しか見てなくて、全文を読んでなかったのか。

 なんという早とちりだろうと思うと顔が上げれなかった。というのもおそらく、先日の妙な心配のせいだ。特待生試験のことを気にかけるあまり、思考回路がそちらに向かっていたのだ。ああもうなんてアホ。

「先生、ケッコンすんの?」

「え?」

 あまりにも脈絡のない、しかも聞き間違いかと思うような言葉に思わず顔を上げると、左腕を強く引かれた。ヒールが石畳を模した床に軽く鳴ると、いつもの高さに視線が戻る。

「さっき小野先生がそんなこと言ってたけど」

「え、しないよ。先生が言ってたのって、あれでしょ」

 言いかけて思わず一瞬詰まった。気まずさで相手を見れずに視線がさまよう。

「……わたしに一向に結婚の気配がないってことでしょ……」

 乱れた髪が頬を撫でるのがわかる。言ってしまってからなんということを生徒に言っているのかと心底後悔した。ていうか、おのせんせい、なんの話をうちの生徒にしてくれてんだまじで。いやまじで。

 二連続でなんだかみっともないところを見せてしまい、葉子は心底落ちこんだ。ええええもうどうしようこれ。っていうか、いや、待って、そうじゃない。

「ていうか颯太、風邪って」

「うん、たぶん引きかけだと思うけど」

 と言って思い出したようにポケットからまだ袋に入っているマスクを取り出した。「うつしたらやばいと思って」

 先につけとけばよかった、と真っ白なマスクの奥から聞こえる。

「薬は?」

「飲んだよ」

 葛根湯、と颯太は続けた。

「休んだから驚いたの?」

 言われて気づいた。そうだ、レッスンを休んだのははじめてなのだ。葉子はゆるゆると口元に手を当てた。

「それもあるけど、わたしが気にしたのは……」

 一瞬、どう説明したものかと考えたけれど、ここまできて嘘もつけなかった。

「特待生試験、いやになったんじゃないかと思って……」

「え、なんで」

「や、なんというか」

 予想外の返答だったようで、マスクの上の瞳がまたたいた。葉子は口元をおさえて言いよどむ。だが相手はそんな葉子を見てすこし嬉しそうなようすに見えた。

「――でも、心配してくれてありがとう」

 その返答に、思考回路は一瞬で動いた。

「もしかして実家に帰る?」

「うん」

「じゃあ、送るよ。そこで待ってて」

 返事を聞かずにきびすを返す。金曜である今日の最後のレッスンが彼なのだ。ないとなればあとは片付けてしまえばいい。しかも実家に帰るという。となると電車の方向はほぼ同じだった。

 実家まで近いのになぜひとり暮らしなのかと思われそうだが、練習ができる環境、つまり防音の学生用マンションがこの近辺には多数ある。彼のように特待生を狙う生徒ならば家を借りてでも練習を優先する。効率の問題だ。

 それでも帰るというのならよほどというか、いや、ちがうなとレッスン室の鍵をかけながら葉子は思った。しっかりしていると言うべきなのだ。まだ風邪は引きかけ、そこできちんと実家に帰る。リスク管理はばっちりだ。だったら大人が帰路についていけばもっと――

 と思ったころにちょうどもう一度教務課の掲示板前に来た。コートを着て足を止めた葉子を見て颯太は首を傾げた。

「どしたの先生、眉間にシワできてるよ」

「うるさい。……いやごめん、ちょっと強引すぎたわ……」

 片付けも終わり、あとは帰るだけという段になって言うことではないが、自分の行動の波にいまさらながらすこし引く。あれ、わたし小野先生に構われすぎて生徒と先生の線引きが曖昧になってないか? 年齢が近いせいか、自分でもこのラフさが生徒との関係構築にいい影響になっているとは思っていたが、もしかしてけじめがなってないという側面も――

 葉子が眉間を気にしながら自問していると小さく笑い声が耳に届いた。

「すごい速さだったよね。先生の思考回路がブワッて動いたのわかる気がする。ありがとう」

 素直に言われると、先生というのは現金ないきもので、素直にほっとした。

「うん、――帰ろうか」

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