第2話

 学校から家までは電車で三十分ほどだ。乗り換えは一回で済み、マンションのオーナーが小野先生のため楽器も置ける上に割引価格で住まわせてもらっている。さらに二、三週間に一度ほどはお相伴にあずからせてもらっているし、――なんだかんだで本当に恵まれてる。

 暮れた空を車窓から眺めながら、あれはなんだったのだろうと葉子ようこは思った。思うほどに胸にくるひとことだったように思える。

 副科ピアノはピアノ科以外の生徒は必須科目になっている(代わりにピアノ科だと声楽を副科とする)。ピアノ以外の楽器は自分ひとりで和音をつくるということがないためか、生徒たちはもちろん副科ピアノが大嫌いだ。

 そんなことはもちろん教える側もわかっているから、おそらく当時の葉子はそんなことを言ったのだろう。加えて――そうだ、颯太そうたの場合は、と葉子はひとりでハッとした。

 そうだ、自分が特待生を経験しているからだ。

 葉子の家も決して裕福ではなかった。そもそも特待生とは学費の救済のためにあるシステムだ。その代わり、その生徒には実質楽器ごとの学年トップの成績であることが求められる。そのため肩書だけを目的とした生徒も少なからずいて、そういうごちゃごちゃした人間関係に疲れる者も少なくなかった。――葉子ももれなくそうなったひとりだった。

 小野先生はああいう性格で、当時の葉子はまだ今ほど図太くもなかった。三年に上がる際の特待生試験のモチベーションがどうしても上がらず、どうしようかと考えていたときに相談に乗ってくれたのが、当時ひとつ上にいた同門の先輩だった。彼女も同様に特待生試験に疲れたうちのひとりで、彼女が休学をすすめてくれたのだった。

「休学する期間の学費はもったいないかもしれないけど、長い目で見たらたぶん休んだほうがいいよ」

 そうして葉子は一年間休学し、その間に好きな伴奏をやったり生活費を稼ぐためにバイトをしたり、とにかく特待生試験から離れた生活をすることができた。彼女が四回とも特待生試験を乗り切れたのはこのアドバイスのおかげにほかならない。

 はじめて颯太を担当するときに特待生で入学したときいてすこし不安に思った。この子もいつかわたしのように折れそうになるのではないか。そんなことを思っていたが、彼に関しては杞憂だった。――いや、本当に杞憂だったのかは今でもわからないし、実際に先ほどのようすを見ると疲れていないとは思えなかった。けれど――

 乗り換え駅になり、どっと人混みに押し出される。無意識に指をかばいながら体にしみついた動きで歩いていく。

 だが、葉子が見ている限り颯太がその溝に落ち込んだことはないようだった。音楽をやっているとわかるのだが、精神状態はかならず音に出る。それが副科ピアノの演奏であっても、一年、二年と見ていればかならずわかる。

 もしかすると主科のほうはそうではなかったのかもしれない。しかし、だとすればよりいっそう葉子はよろこばしいと思うのだ――ピアノだけではなく、音楽の本質とはそこにあるのではないだろうか。

 過ごすだけで苦しくもなる毎日の中で、ほんのひととき、その苦しさから解放してくれるもの。彼にとって副科ピアノがそうであったらいいと、葉子は思う。事実颯太の副科ピアノはレベルもそこそこあるのだ。もちろん特待生である手前、副科の質さえも落とせないという理由もあるのだろうけれど。

 たぶん、――まぶしいのだろう。葉子は思った。自分が学生時代“そう”ではなかった、そこにいる人物のことが素直にまぶしい。嫉妬とはちがう、なかば憧れのような気持ち。

 ――伴奏、ほんとにしてくださいね。

 耳によみがえる声。音をなりわいとするからこそわかる、あれは本心の言葉なのだろうと。たんなる興味だろうかと思ったが、それも楽しそうだと思えた。たしかに颯太の演奏は聞くものをワクワクさせるちからがある。だとしたらきっと合わせても楽しいだろう――

 考えているとあっという間に玄関だった。一人暮らしであっても楽器があるからかつい「ただいま」と言うのが癖なのだが、この日はふと颯太が「いってきます」と言ったのが思い出された。また知らず小さく笑いもらしながら、葉子はヒールを脱いだ。

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