橙にふれる

山本しお梨

第1話

 窓から見える太陽は沈みかけの橙に燃えていた。

 その手前にある休憩用のテーブルに突っ伏した影に見覚えがある気がして、葉子ようこは足を止めた。

「どうしたの?」

 となりを歩いていた小野教授が尋ねる。葉子は自分より頭ひとつ小柄な師匠を振り返り、カバンを抱え直した。

「先生、先に行ってもらえます? たぶんあの子、うちの生徒です」

 あら、と先生が言い、足を向けた。なかばコートに埋もれるように眠った人物の目元は、まちがいなく葉子が副科ピアノを教えている江藤えとう颯太そうただった。

「あらら江藤じゃない。なんでこんなところで寝てるのかしら」

「……合わせじゃないですかね」

 ちょっと考えて葉子が言う。彼の専攻はトロンボーンで、その伴奏は現在、葉子の教え子である三谷みたに夕季ゆうきが担当している。三谷の授業はたしかこの曜日は五限までだ。

「こないだの一次試験も良かったわよ」

 うれしそうに先生の声が弾む。学校の古株である彼女は、特待生試験も一次試験から審査員としてかかわっている。まだまだ助教授試験の準備段階でしかない新米の自分にはしばらく口にできない感想だ、と葉子は思った。

「今度受かれば、四年連続になるわよね? 頑張ってるわね」

藤村ふじむらが辞めたときはどうなるかと思いましたけど」

 思わずぐちめいてしまった。同級生である藤村六花りっかと颯太は一年生の頃からのコンビではあったが、藤村は学びたいもののために学校を変えた。藤村はソリストとしてだけではなく伴奏者としても優れた感性を持っていたため、後任を探すのはほんとうに大変だった。日々のレッスンだけではなく前期・後期試験、そして颯太のように特待生試験や外部コンクールなどに参加するような生徒にとって、伴奏者選びは死活問題なのだ。藤村の担当講師であった小野先生と、颯太の副科ピアノの担当講師である葉子がもともとが師弟関係であることも手伝って、まさに一致団結して後任を探した。

 そうして白羽の矢が立ったのが、葉子の生徒でもある二年生の三谷だった。学年は違えど、カンの良い子だ。伴奏者にはソリストとちがう「合わせる」意識が大切なのだが、これを自然と持っている人物は、じつはとても少ない。

「六花はねえ、しょうがないわよ、行くなとも言えないし」

 薄暗くなってきたロビーに苦笑気味の小野先生の声が響く。遠く楽器の音と、講義中の声がする以外はとても静かだ。

「六花がいなくても、江藤の音そのものが損なわれるじゃないしね……じゃあ、わたし先に戻るわよ?」

「はい」

 うなずいて師匠を見送ると、葉子はうつぶせた生徒のとなりに腰掛けた。目元を眺めると、つい「肌のハリがちがうな……」などと思ってしまって、葉子は自分に軽く落ち込んだ。さっきも師匠に「あんたはもうちょっと男と付き合うとかないの、伴奏とかやってるのはいいんだけど」と小言をもらったばかりなのだ。三十一を数えて、たしかに少しはうーんと考えることもないが、どうにも弾くこと、教えること以外にまだ興味が向かない。それでなくともやっとここでの講師生活も五年目。まだまだひよっこの分際なのである。極めつけはいつもの「先生も結婚してないじゃないですか」で先生のお小言にピリオドは打てた。とはいえこうやって同じ大学に就職したとしても気にかけてもらえているのはありがたい。第二の母親のような存在だ。

 葉子はここの卒業生だ。二十三のとき、一年の休学を挟んで演奏学科を卒業。専攻科には進まず小野先生のコネクションにあるドイツへ留学し、二年後に帰国。それからは母校での非常勤講師を経て、今は常勤講師となった。さらに今後は助教授をめざして準備をしていく。小野先生としては今の生徒たちと今後入るであろう生徒たち(自宅レッスンも含め)を葉子に引き継がせ、自分は悠々自適に暮らしたいらしい。もう五十七なのだ、とは思うものの、パワフルな人物なのでまだまだ引退の実感はわかない。

 二十六から勤めて五年、やっと生徒との距離感や自分なりの「教え方」がわかってきたくらいだ。これでも幼児教育などに力を入れている音楽教室などに就職した友人よりは、教えるという点ではやりやすいはずだ。なにしろ学生は、少なくとも自分でこの道を選んでいるのだから。

 恵まれてるよなあ……とぼんやりと思っていると、コートが動いた。

「颯太」

 呼ぶと、しかめられたまゆとまぶたが動く。相手の視線が明るさにさまよい、ゆるやかに葉子をとらえた。

「あ、よーこせんせー」

 起き抜けの声は完全にひらがな発音になっていて、葉子は思わず小さく笑った。

「おはよう、いつから寝てたの?」

「練習棟で練習してから……いまなんじ?」

「あともう少しで五限目終わるよ。ちょうどいい頃合いかもね」

「……俺、合わせだっていったっけ」

「言ってないけど、そんなところじゃないかと思って」

 よーこせんせーエスパーなの、と笑いながら起き上がる。左側の頬はかすかに赤くなっていて、二十歳そこそこの妙な幼さと大人のあわいの色を見せていた。

「先生はなにしてたの? あ、もしかしてごめん、ここ寝ちゃだめだったとか?」

 声が起きてきたな、と思いながら葉子は首を横に振った。

「大丈夫、さっきまで小野先生と一緒にいたんだけど、その帰り。生徒の割り振りの話とか伴奏とか、」結婚に関することはまあいいだろう。「……いろいろ話してた」

「小野先生?」

「うん。颯太のこと、藤村いなくなっても頑張ってるねって褒めてた」

「やった。小野先生厳しいからそう言ってもらえるとうれしい」

「どう、三谷くんの伴奏」

「うーん、」と一度颯太はのびをした。コートが椅子の上にゆっくりと落ちていく。

「正直まだ六花にはかなわないけど、無理してないし誠実でいいよね。“遊べる”余地もあるし」

「それが伴奏者の仕事だからね。二次もいけそう?」

「そのための、これからの合わせです」

 気負いない、けれどきっぱりとした言いようだった。自分のレベルや相手のようすを過大評価も過小評価もしない。颯太の客観性がよくわかるひとことに葉子は知らずほほえんだ。

「そうだね」

「ほんとはさ、」と颯太が起き上がったそのまま、うしろの壁に背中をあずける。ニュートラルでリラックスしたようすが、そのどちらかというと細い体から伝わってくる。

「葉子先生に弾いてもらいたいんだけどね」

 葉子は一度またたいた。

「なにを?」

「伴奏」

 葉子はさらに二度またたいた。

「……無理だよ、講師だもの」

「だよね」

 かすかに嘆息したようすにまた大人と幼さのあわいの色が交じる。この年代特有の色だよな、と葉子は思いながらくったりとしたコートに手を伸ばした。

「学生同士でどうやって対応していくかを考えるのも勉強だからね」

 本当のところ、ピアノ以外の楽器の生徒はこれが難しいのではないかと毎回思う。ピアノ科には「断る」という手段がある。もう三人担当しているからとか、この楽器は得意ではないからとか。同じく彼の同級生でもあり、小野門下生でもあった菊川一夏いちかはそのタイプだ。やっていたのは一年生のころ、当時四年生にいた声楽科の特待生ひとりだけだったように記憶している(ただし理由はたぶん「面倒だから」だったと思うが……)。

「……もうそんなに経ったのか」

「…先生、独り言こわいです」

「あ、ごめん」

 コートを差し出しながら思わず謝ると、三年間見てきた生徒と目が合う。

「みんな、大人になったなあと思ってさ」

「え、さっきの独り言ってそういう意味?」

「そういう意味。いやーわたしもおばさんになるわけだわ」

 小野先生との会話を思い出しながらぼやくと、颯太が笑った。

「何いってんの」

「いや、ほんとだって、譜読みとかも遅くなった気がするし……」

「先生はおばさんなんかじゃないよ。ちゃんと『先生』だよ」

 葉子がきょとんとすると、颯太は差し出されたコートを手にした。厚い布越しに手が触れるのがわかる。

「『副科ピアノなんて心底なくなればいいと思っているのはわかっている。でもそれをどうにかするのがわたしの役目。とにかく指を動かして曲のことを考えて毎週出席したらどうにかなるんだから、とにかくおいで』」

 一瞬、間があいた。

「――っていわれたとき、俺まじで葉子先生で良かったと思ったよ」

「――そんなこと言ったっけ…」

 若気の至りでしかない発言に思わず青くなって小声になると、颯太は笑って「言った言った、絶対言った」とリズムよく続けた。そうして彼は立ち上がるとさっとコートを着て、楽器の入ったケースを肩にかける。

「さーて、じゃあ、みっちゃんをしごいてこようかな」

 その言い方に思わず葉子は笑った。みっちゃんとは三谷のことだ。颯太が三谷のことを気に入っているのがありありとわかる呼び方に、つい葉子は頬を緩めた。

「あんまりいじめないんだよ、“先輩”」

「はーい」

 しっかり楽器を背負うと、なんだかそれだけで「ひとり」に見えるなと葉子は思った。そんな彼女をもう一度あらためて、颯太は振り返る。

「先生」

「うん?」

 見上げる形になった葉子は返事をしながらあれ、と思った。あれ。この子こんなに背が高かったっけ。

「伴奏、ほんとにしてくださいね」

 夕日の橙が颯太の瞳に入る。軽やかな笑みを含んだ声だったのにその色が驚くほどうつくしく、葉子は動きを止めた。

「じゃ、いってきます」

 葉子が返事できないままでいると何事もなかったようすで彼は行ってしまった。葉子が「いってらっしゃい」と返したとき、黒いケースは軽やかな足取りでほとんど遠くなっていた。

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