目覚まし草
月世
目覚まし草
おっさんに、囲まれている。
中途採用で入った小さな会社は、あまりにも潤いがなかった。女性社員は事務員のおばちゃん一人。化粧気のない、男と見紛うほどの逞しさだった。
十三人の従業員のうち、二十五歳の俺が一番若く、一回りも二回りも違いそうなおっさんばかりだった。
以前働いていた会社がブラックだったので、白ければなんでもいいとなかばやけくそで入社したのは、ワックスを売る会社で、予想以上にクリーンだった。
八時出勤、五時退勤、という奇跡の八時間労働で、残業をする社員はまれだった。
小さな社屋内は禁煙で、雨が降ろうと槍が降ろうと外で吸うというルールがあり、出勤した喫煙者がこぞって建物の裏手にある喫煙所に群がっていた。朝は必ず紫煙を掻い潜って会社に入らなければならない。煙草を吸わない身としては、これさえなければ、と思う。
贅沢な悩みなことはわかっている。でも、どうせならストレスフリーで働きたい。
いつもより早く出勤すれば誰もいないだろうと、二十分早く家を出た。甘かった。先客がいる。灰皿のそばでヤンキー座りの課長が一人、煙草を吸っていた。
「おはようございます」
「おはよ」
煙を吐きながら、短く返してくる。
「お前、なんだっけ」
「え?」
「名前」
「あ、谷です」
「あたに君」
「谷です」
ちくしょう、と内心で毒づいてから言い直す。課長は「うん」とニヤニヤしながら煙草を咥え、頭上に細い煙を吐いた。入社して一週間経つが、名前を覚えられていないのが地味に傷ついた。
がっかりした顔を見られまいと、頭を下げながら通り過ぎようとする俺を、課長が呼び止めた。
「谷は煙草吸わねえの」
「吸いません」
口に手を当て、軽くむせる。
「嫌い?」
「はあ、嫌いです。臭いし、迷惑だし、吸う人の気が知れません」
「あん、傷つく」
「課長ってなんかめんどくさいっすね」
煙を払いのけ、課長の笑い声から逃げるようにドアを閉めた。
その日から、二十分早く家を出るのが日課になった。毎朝ヤンキー座りの課長に呼び止められ、そのたびにいじられるのだが、俺はそれが次第に楽しくなっていた。
「谷、谷」
今日も今日とて呼び止められる。
「お前ちょっと、これ吸ってみろよ」
煙草を咥えながら、パッケージを振りかざして課長が言った。
「イヤっすよ。嫌いだって言ってるでしょうが」
「俺の煙草が吸えねえってのか」
「それパワハラっす」
「大丈夫」
「何が大丈夫?」
「俺も最初は嫌いだったんだけど、気づいたらヘビースモーカーよ?」
「時代に逆行してますね」
「ごちゃごちゃうるせえな」
パッケージをポンと叩き、飛び出した煙草を一本、突きつけてくる。
俺は嫌煙家だ。吸うわけがない。と思うのに、手が勝手に伸びていた。
「ほら、火」
ライターの火が揺らいでいる。課長の前にしゃがんで、同じポーズで顔を突き合わせた。二本の指でつまんだ煙草の先を火に近づけると、課長が舌を打った。
「咥えろ」
「へっ」
「線香花火じゃねえんだぞ。火の付け方知ってるか? 咥えて、吸う」
咥えて、吸う。かあっ、と顔が熱くなった。
からかわれたことが恥ずかしいというより、課長の言い方が、妙にいやらしく感じたのだ。
震える手で口に運び、咥えてから火に先端を近づけた。
「で、吸う」
レクチャーする課長を上目遣いで見た。目が合った。こんなふうに目線を合わせるのは初めてだった。変な感じだ。
この人は、いくつなのだろう。髪はボサボサで白髪交じりだし、笑うと目尻にしわが寄る。三十後半か、四十代前半? ワイシャツはよれているし、ネクタイはここ三日、ずっと同じだ。左手に指輪はないし、未婚に違いない。
じり、とフィルターが燃える音が聞こえた。すかさず肺に滑り込んでくる、渋味。思わず咳き込んだ。
「まっず」
吐き捨てるように評価すると、課長が声を上げて笑った。腰を上げ、短くなった自分の煙草を灰皿に押しつけて煙を消すと、手のひらを差し出してきた。
「お子様には早いか。貸せ」
「え?」
俺の手から煙草を奪うと、ためらわずに口に運ぶ。
「あ」
声が出てしまった。課長が俺の咥えていた煙草を。
腰の辺りがゾク、として、急に落ち着かなくなった。しゃがみ込んだまま、課長を見上げる。美味そうに、煙を燻らせている。どうしてだろう。薄く開いた唇から吐き出される煙の香りが、今は不思議と不快じゃない。
「何?」
課長が煙草を咥えながら壁にもたれ、俺を見下ろしてくる。
「あ、い、いえ、なんでも……、失礼します!」
慌てて立ち上がり絶叫すると、ドアを開け、中に転がり込んだ。
心臓がうるさい。息苦しい。体が火照る。
こぶしで胸を乱打して、何度も息を吐く。
どうなった。
これはなんだ。
自分の感情の正体に気づくのは、もう少し先になる。
〈おわり〉
目覚まし草 月世 @izayoi_t
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