神の明らかな手
庵字
神の明らかな手
前半25分(午後3時29分)
『
後半10分(午後4時14分)
『――ゴール! コーナーキックに頭で合わせたのは、エース宗重! 前半のハンドの汚名返上とばかりに、見事なヘディングを決めて見せました! これでスコアは1-0! 試合が動きました!』
後半45分+2分(アディショナルタイム)(午後4時51分)
『あーっ! ボールがゴールネットを揺らしはしましたが、手に当たっています! リプレイを確認するまでもありません! ここ、放送席からでも明らかに分かるハンドです! そして、このハンドは、またも宗重! ということは……そうです、主審から本日二枚目のイエローカードが提示され、エース宗重、ここでまさかの退場です! 宗重、駆け足でピッチを離れていきます……』
無人の控え室に戻った宗重は、タオルで汗を拭うこともしないまま、鞄から自分のスマートフォンを取り出した。目的の画面を表示させ、ディスプレイ上部で時を刻むデジタル時計の数字を見やる。現在時刻は、午後4時58分。
――間に合った……。
ほっと胸をなで下ろした直後、宗重の顔が緊張にこわばる。彼の頬を、体を動かしたことによるものとは別種の汗が伝った。
この日のキックオフ時刻は午後3時4分。前半45分、ハーフタイム15分、後半45分、試合にかかる必須時間であるこれらを足しただけでも、1時間45分。実際には、前後半それぞれでアディショナルタイムが加算されるため、1時間45分きっかりで試合が終わることなどあり得ない。しかも、試合が終わったあとでもやることはたくさんある。サポーターへの挨拶、クールダウン、試合終了後の監督の総括。それらすべてを終えて控え室へ戻るまでには、キックオフから2時間30分は経過してしまうはずだ。つまり、午後3時4分キックオフの試合であれば、控え室に戻ってくるのは午後5時30分前後となる。それでは到底間に合わない。宗重には、この日、午後5時に控え室に――しかも、たったひとりで――どうしても戻ってこなければならない理由があった。1分でも遅れることは許されない。
チームのエースである宗重がスターティングメンバーにもベンチにも入らないなどということはあり得ないし、宗重自身も強くそれを望んでいる。
仮病などを使ってメンバーから外れるような手段を取ることは避けたい。そんなことを言い出したら、正式に医者にかかれと言われることは必定で、後々やっかいな問題となりかねない。
先発で出場して途中交代する、というのも難しい。そもそも交代の権限を握っているのは監督だし、その試合の戦況によって自分に交代が掛かるかは分からない。大量得点をして試合運びに余裕が生まれれば、ストライカーである自分を下げて、守備的な選手を入れるという戦術もあり得るが、この日の相手は難敵だ。そんなにも点差をつけられる可能性は低いし、そうなったからといって自分が交代になるという保証はない。それに、交代した選手はそのままベンチに残り、試合を見守るのがサッカーの通例だ。自分だけが控え室に戻るのは目立つし、怪しまれてしまう。
いい時間になったら体調不良を訴えて強制的に交代してもらう、というのも不可能だろう。そんな事態になれば、チームドクターが付きっきりになるはずで、ひとりで控え室に戻ることなどかなわない。
宗重は考えた。試合に出場しながら――あわよくば勝利しながら――午後5時少し前に、たったひとりで控え室に戻ってくる方法はないものだろうか……? この問題に彼が出した答え、それが「カードによる退場」だった。
選手交代と違い、退場になった選手がベンチに座ることは通常ない。退場処分となってしまった苛立ちから、あるいは自省の気持ちから、そのままピッチを出て控え室に戻ることが多い。その際、選手の気持ちを
カードをもらうこと自体は容易い。相手に対して危険な、悪質なプレイをすればそれだけで事足りる。だが、それで相手に怪我をさせるようなことだけは絶対に避けなければならない。危険なプレイは絶対に駄目だ。もうひとつ、カードが出される対象として、“非紳士的な行為”が挙げられる。審判の判定に対して悪態をつく、や、相手選手に対して無礼な言動を行う、といったものだ。だが、これも避けたい。宗重は“紳士的なプレーヤー”で通っている。実際、これまでにもらったカードの枚数は、プレイ年数としてみればかなり少ないほうだろう。そんな自分が、突如非紳士的な言動をしたとなると、周囲を大いに困惑させてしまうし、今後のキャリアにも影響してこないとも限らない。プロ選手はイメージも大切な武器だ。これからも宗重は、“紳士的なプレーヤー”として同業者や業界人、ファンに認知され続けることを強く望んでいた。とはいえ、試合途中にピッチを抜け出して単独で控え室に戻る手段など、退場以外にはありえない。考えに考え抜いて宗重が出した答え。自分も、他人も、誰も傷つけることなく退場する手段。それが“攻撃側のハンドによる退場”というものだった。
どういうことか。当然、サッカーという競技において、手でボールをコントロールすることは反則だ(自陣ペナルティエリア内においてのゴールキーパーは除いて)。例えば、相手が放ったシュートをゴールキーパー以外の選手が手で防いだら、当然カードが出される。決定機を阻止したというような悪質な場合であれば、一発レッドカードとなることもあり得る。だが、“紳士的なプレーヤー”で通っている宗重がそれをやるのはまずい。だが、それほど悪質なものでないハンド(正式には「ハンドリング」)であれば、通常はイエローカードで済む。それを二回繰り返せばいい。「悪質でない」だが、「明確なハンド」。しかも「宗重のイメージを傷つけない」。それらの条件すべてを満たす「反則」として宗重が到達したのが、「ハンドによるゴール」俗に言う「神の手」だった。
「ストライカーとしての本能」、「思わず手が出てしまった」、あるいは、「たまたま体勢が悪くて手に当たってゴールしてしまった」。ファンやマスコミがいくらでも“理由”を考えてくれるだろう。手に当てた直後、それを隠そうとするでなく、「やってしまった!」と自分でハンドを認める仕草をすることも忘れない。悪意によるものではないことをアピールしなければならない。宗重は、こっそりとそれらを練習し続け、本番で上手くやった。しかも、二度目の「ハンド」を犯したのは、リードした展開の試合終了直前、ストライカーである自分がいなくとも、チームメイトたちは十人でリードを守り切ってくれるだろう。宗重は仲間たちを信頼していた。退場処分となった直後、駆け足でピッチをあとにしたことも好印象となるだろう。なんと言っても、こちらがリードしているのだ。通常であれば、時間稼ぎのために、わざとゆっくりとピッチを出ていくのが普通だ。
デジタル時計の表示が午後5時を示した。
――来た!
宗重はピッチ上で見せる鮮やかなドリブルのごとく、タッチパネルの上で指を走らせた。
この日は、彼が“推している”、あるアイドルグループのプレミアムコンサートのチケット販売開始日。このグループのコンサートチケットは毎回争奪戦になる。販売開始後、数分でチケットが完売してしまうことも日常茶飯事だ。そして、この日のチケット販売開始時刻が、午後5時。
彼がこのアイドルグループの“推し”であることは誰にも教えていない。自分だけの密かな秘密、無上の楽しみ。
無事にチケット購入を果たした宗重は、そこでようやく汗を拭うと、コンサート当日にどんな変装をしていくべきかを考え始めた。
神の明らかな手 庵字 @jjmac
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます