決意の宵に

隠井 迅

第1話 起ち上がれ!

 三月九日・午前九時五十九分――

 十九歳の櫻川潤一郎(さくらがわ・じゅんいちろう)は、両目を閉じたまま、中庭に備え付けられている大きな深緑色の掲示板の前で佇んでいた。

 その中庭は、葉書大の紙を手にした、潤一郎とほぼ同じ年頃の数多の若者たちで一杯になっていた。それにもかかわらず、言葉を発する者は一人としておらず、ほとんどの者は固唾を呑んで、掲示板に掛けられていた分厚い幕を見詰めていた。

 やがて、あらかじめセットしておいた腕時計のアラームが一回だけ音を鳴らし、それが、時が十時を刻んだことを告げた。そして、それと同時に、潤一郎の周りで、悲喜こもごもの声が上がり始めた。

 潤一郎は、周囲の声が聞こえなくなる位までウォークマンのボリュームを上げると、静かに目を開け、それから、顔を下に向けたまま、左目だけを瞑り、右手を右目の右側に、残った左手に関しては、親指を立て、掌を右目の下に当てた。そうして、自分の視界を可能な限り狭めると、ゆっくりとその顔を上げた。

 つい一分前まで、掲示板上に貼られていた大きな紙を隠していたカーテンは既に取り去られており、目の前には、約千個の数字が並んでいるはずなのだが、視界を遮らせた結果、潤一郎の右目には一つの数字しか映ってはいなかった。


「1021」

 潤一郎の口から彼の受験番号が漏れ出た。

 両手で作り上げた視界の小窓から見えていたのは、600番台の数字で、潤一郎は視界をゆっくりと右に動かしていった。そして、番号が989を越えた所で、一つずつ数字を確認すべく、小窓を少しずつ下にずらしていった。


 997、1002、1003、1005、1007、1011、1013


 あっ、少し番号が飛んでいる。


 1017、1019


 そろそろだ。


 1023……。


 あれっ! えっ! 1021は? 俺の番号がない、ない、ない、無いぞっ!


 潤一郎は、イヤフォンを耳から取って、顔から両手の仕切りを外すと、今度は、人差し指で番号をなぞりながら、1000番台の数字を一つ一つ声に出して読み上げていった。

 しかし――

 やはり、<1021>番は、掲示板の紙上のどこにも存在しなかった……。


 合格発表があった大学を後にし、明治通りをひたすら歩いている自分が、まるで、牧場から市場に売られてゆく、絶望的な子牛と同じように思え、さらに、一瞬ごとに一歩ずつ歩を刻んでゆくにつれ、粘着性の高い泥に捕えられ、その歩みが重さを増して、潤一郎の思考は、深き泥沼にはまり込んでしまったようになっていた。

「これから、どうしよう。どおうしよう。どおうしよぅうぅぅぅ~~~」

 潤一郎は、通常、徒歩一時間の距離を二時間かけて下宿まで戻った。


「絶望だ。駄目だ。もう無理だ。もう、むりだっつぅぅぅ~~~のっ!」

 そもそも、期待なんて抱くから、希望するから絶望してしまうのだ。

 絶望ってのは、単なる負の感情ではなく、たとえば、希望という高みから絶望という奥底へ落ちてゆく動的なもので、その落差があればあるほど、絶望は深いものになる。

 ならば、心穏やかに生きるためには、何も希望せず、何も目指さないほうが無難に決まっている。

 じゃあ、なんでこんなに悔しいんだよ。

「ち、ちっくしょうぅぅぅ~~~」

 潤一郎は、何度も何度も力いっぱい枕を叩き続けた。

 次第次第に、感情が心の奥から湧き上がってきて、ついに潤一郎は号泣してしまった。声を抑えることさえできない。

 潤一郎は、漏れ出る嗚咽を無理矢理に抑えつけんと、先ほどまで殴り続けていた枕を口に当て、さらに、布団に潜り込むと、今度は、堰を切ったように泣くだけ泣いた。


 泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったらしく、窓の外は茜色に染まり始めていた。

 

「何かに挑戦する限り、人は、失敗もするし、希望から追い落とされて絶望することは避けられない。だから、自らの目標を達成する上で最も重要なのは、失敗した後の振舞い方なんだよ。つまり、いかにすぐに起ち上がるかなのさっ!」


 高校の卒業式の時に、友達と駄弁りながら何とはなしに聞いていた、クラス担任の体育教師が述べた<贈る言葉>がふと思い出された。

 今回の受験で、自分はゴールテープを切ることはできなかった。そして、大学合格という次のゴールに辿り着けるのは、一年も先になる。でも、スタートをしないと、そもそもゴールなんて存在しない。

 西日が入ってき始めた部屋の中で、テーブルライトを点けると、潤一郎はテクストとノートを開いて勉強を始めた。

 問題を解きながら潤一郎は思った。

 そういえば、高三の時、大学を全部スベってしまった時には、悔しくもなかったし、今回のように泣きもしなかったな。

 今回、泣いたということは、たしかに結果は出せなかったけれど、俺、本気で勉強してきたんだ。そして、号泣できるほどの絶望を味わったということは、来年、目標を達成できた時の歓喜は、今まで味わったことのない程、甘美なものになるだろう。

 問題を解き終えた潤一郎が受話器を手に取って、短縮ダイヤルのボタンを押すと、一度の呼び出し音の後、すぐに電話が繋がった。

「ジュン?」

「もしもし、母さん。俺……」


<了>

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決意の宵に 隠井 迅 @kraijean

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