水泳ゾンビ

小早敷 彰良

プールをぐるぐる泳いでる

 扉を開くと薬品の匂いが漂った。刺激的なその匂いは、プールサイド独特の湿気と共に、はだしの脚にまとわりつく。

 俺は深呼吸をして胸いっぱいに塩素の匂いを嗅いで、笑みがこぼれた。

 幼い頃からずっと嗅いでいるこの匂いは、俺にとって何よりも親しみが持てるいい匂いだった。

 空を見上げれば、渡りの遅い燕がゆっくりと横切って行く。こんな光景を見るたびに、屋外プールも悪くないと思える。

 スタート直前にも関わらず、立ち止まって空を見る俺に、声をかける人物はいない。

「オリンピック候補生の瀧亮だ。全国記録の天才。」

「なんで都立高校の競技大会にいるんだ。春季記録大会で十分だろう。」

「やっぱ肌白いな。」

 聞こえてくるのはそんな声ばかりだ。

 どれも事実だし、俺も疑問に思っているよ。

 誰にも向けず同意の頷きをしてみれば、飛び込み台の前に立つ気になった。

 水の外はいつだってうるさい。早く飛び込んで終わらそう。

 斜めに傾いだ飛び込み台に乗り、腕を伸ばす。全員が両足を揃えるか、もしくは揃えず、準備を整える。

 機械的な電子音が鳴れば、水の中に入るには一秒もいらなかった。

 激しく動いている全身も、高鳴る心音も、同じプールに泳いているはずの他人の音も、何も聞こえず、見えない。

 かろうじて自分の呼吸音だけが聞こえる蒼い世界に、俺はずっとここにいられればいいと思う。

 考えていると、手が何かに触れる。

 不快感から水面に顔を出すと、そこで初めて自分がゴールタッチをしていることに気が付いた。

 周囲にはまだ、誰もいない。

 俺は息を吐いて、水の中に潜った。

 直後に横のコースで、水流が勢いよく壁に当たる。

 この水流を感じられるのは、ぶっちぎりで一番にゴールをした者の特権だ。

 俺は水中で微笑んだ。


 水泳競技は公式競技大会か正式な記録会で、既定のタイムを記録しないと、上位大会に出場することは出来ない。

 オリンピック育成選手と呼ばれる、国内で選抜された水泳選手たちは、所属の水泳団体とコーチに従って、綿密に計算されたスケジュールに沿って、環境の整った屋内プールで練習し、最適な記録会に出場し、上位大会を目指す。

 二十歳前後で才能のピークを迎える水泳選手にとって、高校生で十七歳というのは一分一秒も惜しい、正念場の時期だった。

 これを超えれば、オリンピックは手の届く場所にある。

「コーチ代えれば?」

 これは同スクールの久保の言葉だ。

 一緒にオリンピックに行くことを目指し、同じ水泳団体に所属している久保から、人生で初めて意見を言われたことに、俺は驚いた。

 そんな性格だったのか、ではない。

 そもそも他人に忠告をする人物が、このスクールにいたのか、ということにだ。

 個人競技である水泳で切磋琢磨しても、他のスポーツと違って、良いことはない。

 究極的には会話も必要ない。

 大事なのは、速く泳ぐだけ。そのために効率的な動き方を誰かがしていれば、後からビデオを見て研究する。

 そしてまた、静かな水の中に戻る。その繰り返しさえできればいい。それが水泳という競技だった。

 プールをぐるぐる回る俺たちは、水泳するゾンビに似ている。

 そう、そのときの俺は、ゾンビが喋ったことに驚いていた。

 都立高校合同水泳競技会の前日、スクールのプールでのことだった。

「コーチがあれだけ言うなら、一回は従おうかと。」

「損切りは早い方がいいよ。コーチは絶対じゃない。ただでさえ、黒井コーチって気持ちを大事にしたい派らしいって、ヤバい噂あるじゃん。」

「ヤバいよな。いちおう俺はまだ気持ち的なこと、言われたことないけど。」

 人体工学に基づいたトレーニングメニューや、確実に速くなる水着がある時代において、気持ちの強さを語る人物はあまり多くない。

「この大会出場って、気持ちを上げろ的な意味なんじゃないの。同世代の大会に二種目も出る意味なんて、それ以外ある?」

 久保がコーラを飲みながら言う。

「付き合うの、止めときなよ。身体壊す前に。」

 気持ちの強さで速くなれるかはわからないけれど、オーバーワークは確実に身体を壊す。

 そういえば、この久保は気持ちの強さに任せた無茶な練習で、身体を壊した経験があったはずだ。

 ターンに変な癖が残ってしまっている同期に、俺は礼を言う。

「今回だけだ。何もつかめなかったら、コーチの交代を申し出る。」

「遠慮すんなよ。もしやるなら僕のコーチに話通しとくから。」


 コーチの交代を申し出なきゃいけないな。

 俺は更衣室で悲しく考えていた。

 午前の百メートル自由形が終わり、午後の二百メートル自由形に出場するために、水着の上に羽織るジャージを探す一瞬のことだった。

 大会が終わったら夕方だけれど、急いで電話すれば久保と連絡はつくだろうか。

「お前、本気でやれよ。」

 今時、こんな絡み方をしてくるやつがいるのか。

 俺は目の前の乾いた金髪に、いっそ感心していた。

 金髪は水着も着ておらず濡れていない、午後の部の選手か応援人員のようだった。

 彼は良く通る甲高い声を上げる。

「育成選手だからって、だらだら泳ぎやがって。」

 肯定も否定もせず、俺はただ、ジャージを羽織った。

 更衣室には、先ほど同じプールで泳いでいた選手もいた。

 彼らからすれば、追いつけなかった選手の泳ぎを、だらだら泳いでいると言われるのは不快で仕方がない。

 剣呑な雰囲気が流れていく。

「周りを見もしない選手がいるのかよ。」

 じゃあ、目に入るだけの動きをしてくれ。心の中で返事をして、俺は荷物をまとめる。試合中は仕方ないとして、荷物はしばらく手に持って歩こう。

 この程度の小競り合いは、大会の規模と質によらず、よくある話だ。

 ただ、コーチにねじ込まれた余計な大会で、けがをしてはたまらない。

 存在を無視し立ち去ろうとする俺に、金髪は捨て台詞を吐く。

「だから伸び悩むんだよ。十代の癖に一年間も同じタイムなんてあり得ねえ。」

「なんでそれを知ってんだよ。」

 俺はつい、彼の顔を見てしまう。

 細い眉をしかめながら笑うなんて器用なことを、彼はした。

「お前イチコメもでるんだろ。俺も出る。お前がどんだけ調子に乗ってたか、見せてやる。」

 漫画の読みすぎのようなことを言う彼に、俺は苛立ちを抑えられなかった。

「こっちは水泳を本気でやってて、だいたいの速いやつの顔は知ってるんだよ。」

 水泳の世界は狭い。練習場所がプールという精々二十五か五十メートルしかない枠に限られるからだ。

 新たに速い選手が現れれば、すぐに噂になる。

「でもお前なんか知らない。吠えるなよ。俺より速くなってから挑発しろ。」

 そう言って鼻で笑って立ち去る俺を、彼がどんな顔で見ているのかはわからなかった。

 ちょうど、自分がどう泳いでいるのか、泳いでいる間はわからないのと同じだった。


「は?」

 水面から顔を上げて、知らず声が漏れる。

 勢いよく水流がゴールの壁にぶつかり、波が立つ。

 水面には誰もいなかった。なのに、俺の上に影が落ちる。

 振り向くとだるそうに猫背になった黒髪が、プールサイドを歩み去っていくところだった。

 水泳競技では、自分と周りの泳ぎは、後から映像で確認するしかない。

 俺は出来るだけ早く水から上がって、更衣室に駆け込んだ。

 金髪は今頃ゴールタッチしたらしく、声をかけてくる。

 一言も耳には入らなかった。

 ろくに拭いていないジャージ姿で、コーチが車を停めている駐車場に走る。

 黒井コーチは既にエンジンをかけていた。

「映像は。」

「もうお前のスマホに送ってある。」

 俺は家に帰る時間すら惜しく、スマホで映像を再生する。

 ひときわ背の高い黒髪の男は、一番端のコースで泳いでいた。

 水泳競技で泳ぐコースは、選手の過去出した記録によって決められている。速い選手ほど中央のコースに配置されやすい。

「今までこんなやつ、どこにいたんだ。」

 端のコースで泳ぐ彼は、どこをとっても異端だった。

 腕の回し方も、足のばたつかせ方も、息継ぎのタイミングも不格好だ。

 彼がしたのは、非効率な動きを誰よりも速く繰り返していた。

 彼は誰よりもゾンビらしく、そして一番速かった。

 黒井コーチが運転し、名前も知らないスタッフが助手席に座る車は、いつの間にか家に着いていた。

「二分足らずの動画を何回観るんだ。」

 俺はむっと黒井コーチを見る。

 このゾンビムーブでなんでこんなにも速いのか、分析しなければならない。何時間あっても足らない作業だ。

 そう言おうとしたところで、彼のにやけ面に気づき、口を噤む。

「たまには予想外も悪くないだろう。」

「彼が誰か、コーチはご存知なのですか。」

「有名なIT会社がスポンサーについた選手ってことだけな。名前は夏樹。」

「名字ですか、名前ですか。」

「さあ?」

 茶化すような言葉に、俺は荒っぽくドアをスライドさせる。

「じゃあまた明日な。」黒井コーチが当然のように言う。

 俺はたっぷり逡巡してから答えた。

「はい、これからも宜しくお願い致します。」

 ドアが閉まる前に見えた勝ち誇った笑みは、見なかったことにした。



「個人競技をわざわざ他人と一緒に練習する理由って何だと思う。」

 黒井がスタッフに話しかける。

「感情で強くなるわけじゃないなら、どうして毎回違うタイムが出るんだ。」

 それらは答えのない問いだと、彼自身理解していた。

「実際今までの瀧には、感情も仲間も必要がなかった。」

 瀧は何の感情を抱かずとも速かった。

「それでも、天才に強い気持ちを持たせたら、どうなるのか。」

 彼らは瀧にもう一段階進化する余地を見出した。

 それは、答えがないからと触れてこなかった、感情についてだった。

「瀧に仲間は必要ない。でも敵は必要だ。」

 例えば、最新鋭の科学の水着を身に纏う同い年。

 一番であるが故に周囲を鑑みない天才が、初めて自分の前に立つ人物を見たときに、どう感じるのか。

 黒井はどうしても知りたかった。

 スタッフは難しい顔で言う。

「敵といっても、切磋琢磨する相手でしょう。仲間と言えますけどね。」

 黒井は目を丸くした。

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水泳ゾンビ 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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