ヒトリノ飯

丹寧

ヒトリノ飯

 昨日は職場の懇親会だった。

 すごく久しぶりに、飲み会というものをした。久しぶりだから楽しかったけれど、やはりちょっと疲れた。

 今日は、ただ静かな夜を過ごすだけでなく、思いきり自分のための気分転換がしたくなった。映画館に来たのは、そういうわけだ。

 満員電車でクラスターが起こらないのと同様、日本の映画館なら人は喋らないから、感染爆発のリスクは低いと思う。


 選んだのは、史実に基づいた渋めの映画だ。万人受けしないかもしれない映画こそ、ひとりで行くとき躊躇いなく観たい。

 平日で、有名な作品ではないこともあり、人はまばらだった。でも、新しい作品を頭に入れて、気分は爽快に切り替わった。あのスクリーンを観ていた人たちは、きっと似た感情に浸ったはずだ。


 映画館を出ると、ラストオーダーぎりぎりの時間に、定食屋に駆け込んだ。

 有楽町で映画を観ると、つい寄ってしまう店だ。ひとりで入りやすい雰囲気に加え、九州料理が美味しい。と言っても、贅沢なものではなくて、刺身醤油で卵かけご飯を食べるのが良い、というそれだけの話なんだけど。


 黙々と卵かけご飯をかきこむ時間は至福である。

 映画も面白かったし、ご飯は美味しいし、足りないものなんてない。

 でもなぜか、物足りない気がする。何かがしたいんだけど、それが何なのかわからない。


「麻衣さん?」


 思った時に、横合いから声がした。カウンターの、反対側の端にいた客だった。

 よく見れば、学生時代の後輩の加藤くんである。


「あれ」

「お久しぶりです」


 破顔して、彼は目礼した。映画研究会で一緒だった彼とは、大学を卒業してからもときどき映画を撮っていた。でもここ数年は、お互い仕事が忙しくなったこともあり、同じチームで撮る機会はなかった。

 このコロナ禍でも映画を撮り続けているのは、同級生の冴くらいのものだ。今年も何度目かに、地方の映画祭で入賞していた。


「どうしたんですか、麻衣さん」

「ひとり映画した後、ご飯食べに来た」

「俺もですよ。何観たんです?」


 作品名を言うと、彼も同じ映画を観にきたとわかった。


「偶然ですね。たまにああいう、史実ベースの堅い映画が観たくなるんですよ」

「わかる。思いっきりエンタメに振れたやつもいいけどね」

「主人公が天才で個性強すぎて、業界の人から見放されていく描写とか、良かったですよね。社会人になってからのほうが、ああいうくだりが共感できるようになったなって実感しました」


 すごく、わかる。

 学生の頃は、何かでゆるぎない実力があれば、社会のどこに行っても敵なんてないと思っていた。だから、勉強でも映画でもいいから、才能が欲しかった。

 でも実際のところは、とくべつ秀でた何かを持っているより、日々のやりとりを周囲とつつがなくやれる才能というのが、いちばん汎用性が高くて、すぐ役に立つ。


「わかる。すごすぎる才能って、普通に生きる上では邪魔でしかないのかも。周りと気持ちや価値観が共有できないし」

「めっちゃ思いました」


 先ほどまでの、何か足りない感じは、あとかたもなく消えていた。

 ああ、そうか、と内心でひとりごちる。

 映画が面白かったから、私は誰かとこの話がしたかったのだ。


「麻衣さん、このお店初めて?」

「ううん。刺身醤油で卵かけご飯が食べたくなると来る」

「わかるー」


 私たちは九州生まれでも何でもないのに、刺身醤油が好きだ。玄界灘の魚の刺身と同じくらいに。

 ふと口許がほころんだ。

 ご飯が美味しかったことも、私は誰かに話したかったみたいだ。


「麻衣さん、一人旅よくしてましたよね。ひとり飯くらい余裕かあ」

「ひとり映画は、加藤くんもするでしょ」

「もちろん。でもご飯は人と行きますよ。旅行に至っちゃ、ハードル高くて無理」


 一人旅も、悪くない。自分の生きたいところに行ける。好きな時にぼんやりできる。でも旅のあいだ、先ほどのような気持ちになることが、そういえば良くあった。

 世界はこんなに素晴らしいから、誰かに伝えたいと思ってしまう。


「一人旅って、何がいいんですか?」


 ふいに訊かれて、無意識が言葉になった。


「人と旅するのっていいなと思えるところ」

「ふーん?」


 加藤くんは不思議そうな顔をした。だったら人と旅すればいいのに、と誰だってそう思うだろう。私だってそう思う。

 自分でも変だなと思いながら、言い訳するように言った。


「ひとりの時間って、必要なんだよ。自分のために、観たい映画を観たり、食べたいものを食べたりする時間が。でも、それってまた、社会に戻っていくための充電期間っていうか」


 誰かと出かけたいと思う時もある。でも、ずっと人といるのも、それはそれでエネルギーがいる。そのエネルギーは、ひとりの時間に貯めるものだ。


「俺は四六時中わいわいやってられるから」

「出たよ陽キャ」


 言ってから、最後のひとくちを食べ終えた。加藤くんはすでに完食している。


「また映画撮りたくなってきたな。仕事ばっかりしてたから、もう限界」

「うん。わかる」


 仕事が突然なくなったら、焦るし困るだろう。何もしていない時間をどうしたらいいか、どうやって生計を立てたらいいか、途方に暮れる。仕事は大変だけど、仕事を経て感じたことや考えたことを、映画にしたいと思うこともある。

 仕事と映画を行き来するように、ひとりの時間と社会の時間を行き来する。


「すみません、閉店のお時間なので」


 店員さんが申し訳なさそうにやってきて、声をかけた。私は立ち上がった。


「帰りましょうか」


 加藤くんが言って、私はうなずいた。彼のおかげで、明日の朝は社会との時間に、少しは軽い足取りで踏み出せそうだった。

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ヒトリノ飯 丹寧 @NinaMoue

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