共棲2
憂杞
共棲2
朝起きると、私の部屋に丸い何かがいた。
アパートの六畳ばかりあるフローリングの中央で、サッカーボール大の真っ黒な球体が佇んでいる。
「……何これ?」
隅のベッドで寝ていた私が声を出すと、いきなり球体が
こちらへ向けた表面に淡黄色の光で表情を浮かべている。二つの円らな点目と逆アーチ型のにっこり口。
「なっ、何なのコイツ!」
私が悲鳴を上げると、口の円弧がきゅっと
「一体何なの……」
私はぼやきながらベッドから降りて、球体を調べるために傍でしゃがんだ。
持ち上げようと手を伸ばしかけて、止まる。
表情がパッと変わったからだ。
上段に八の字の両目、下段に苦味を噛んだような波線の口。あからさまに嫌そうな顔だ。
何を嫌がっているのだろう。触ろうとしたことを?
触ったら何か起こるという暗示だろうか。
そもそもこの黒い体は何? 人工物? だとしたら何でできている?
もしかして、爆発とかする? もし触ったら――
「……いやっ!」
仰け反って床に尻餅をついた。
爆弾だ。目の前に動かせない爆弾がある。
すぐに警察に通報しないと。触る触らないに関わらず、いつ爆発するか分かったものじゃない。
反射的に固定電話を見やり、立ち上がったその時。
インターホンが鳴った。
私は慌てて玄関へ迎えに行く。相手は大家のおばさんだった。
「どうかされました? えらい騒がれてましたが」
どうやら偶然通りがかったらしく、大家さんが突っけんどんに訊いてくる。顔に「近所迷惑だ」と書いてある。
今は態度に構っている場合じゃない。状況を広く理解してもらわなければ。
「それが、部屋に怪しい何かが、朝起きたらあって、ば」
急いでいるせいで発言が途切れ途切れになってしまう。「爆発するかも」とまで言い切ると、大家さんは血相を変えてずかずかと玄関を入った。
かなり動揺させてしまった。勢い余ってアレに爪先を当ててしまわないかと、私は肝を冷やす。
けれど大家さんは部屋の入り口で立ち止まって、鋭い口調で間抜けたことを言った。
「どこにそれがあるだね?」
私は面食らった。
大家さんは入り口中央に立って六畳部屋を見下ろしている。真下に据えられた例の黒い球体を、直視している格好になっているというのに。
「だ、だからそこに……」
まっすぐ床を指差すと、大家さんは見回しながら部屋の中へ直進していく。何にも気付かない様子で、爪先が球体を今にも蹴ろうとしている。
私が大声を上げて止めようとすると、
すり抜けた。
ソレがいるはずの空間に足が重なる。
「何もありゃあせんが?」
片足に黒色を同化させたまま大家さんが言う。
黄色顔がこちらを向いている。八の字と波線の困り顔。
「そんなはず……」
私は大家さんに
思ったより柔らかい。
目を丸くして球体に触る様子を、大家さんが眉を顰めて睨んでいる。顔が「何をしているの」と訴えてくる。
何度訊き返しても、彼女からは私が空気を掻いているようにしか見えないという。
ようやく事実を呑めてきた。この黒い物質を感じられるのは、どうやら私だけらしい。
「あ、あぁああははは…………」
あまりに可笑しくなって、涙を流して笑ってしまう。
直後に隣人からうるさいと苦情が来て、私はもうどうすればいいか分からなくなる。
それからの記憶は飛んだ。大家さん達に何度も謝ったことだけ憶えていて、部屋には私と球体だけが残された。
脱力してベッドに横たわる私を、球体が正三角のきょとん顔で見上げてくる。そろそろ煩わしいのでタマと呼ぶことにしよう。球だから
タマが物言わぬ幻と知ってからは、三日もすれば何でもない存在と化していた。
誰にも危害を加えないと分かれば、私のすることはどうせ変わらない。必要な買い物だけを済ませて、あとは惰眠を貪るだけの日々。
部屋の真ん中から微動だにしないのは邪魔だけれど、同じくほぼ動かない私からすれば支障ですらない。タマは案外、今の私みたいな置き物なのかもしれない。
ただ、タマみたいな幻覚が見えるあたり、やっぱり私がオカシイ奴だと再認識できたのは良かった。
些細な理由で辞めた職場で散々言われたことだ。
思ったことをそのまま口に出すせいで、方々から目を付けられ居心地が悪くなった。
良かれと思って指摘したことは全て余計で、手も速くないのに時間を浪費するからお荷物扱い。上司は何度もクビにするぞと怒りつつ、最後には減給だけで許してくれた。
自分と周りのどちらがオカシイか疑問だったけれど、タマのおかげではっきりした。
私は社会から離れるべくして離れたのだと。
背後に視線を感じながらベッドに寝転がり、実家から持ち出した漫画本を読み耽る。今読む巻はかれこれ五周目になる。
「……ん?」
ふと、目の前の壁に違和感を覚える。
場所は視界の隅に映る、ベッドの上部に挟まれた辺りだった。
体を横に倒し片手でまさぐると、壁紙と同じ色のメモ用紙に触れた。
四隅のテープで貼り付けられていたそれは、大家さんに見つかることなく残っていたらしい。
剥がして裏を見ると、そこには鉛筆で丁寧に文字が書かれてある。
『新しく来た人へ
もし黒くて丸いヤツが見えても、
怖がらなくて大丈夫です。
触っても爆発とかはしません。
優しく撫でてやってください。
もしヤツが―― 』
前半を読むなり眉根を寄せた。
黒くて丸い。もしかしなくてもタマのことだ。
メモを残したのは引っ越し前の同室の住人とある。前の住人にもタマが見えていた? それに、後半に書かれているのは――
なんだか気分が悪くなって、指先に力がこもる。
「あっ」
思わずメモの両端を皺くちゃに曲げてしまった。
これでは元の場所に貼っても目立つ跡のせいで、次こそは大家さんにバレるだろう。
次の住人にこの伝言が必要かもしれないのに。三日前の私もこれを読めば慌てずに済んだだろうに。
背後から視線を感じる。
前の住人はタマを大事にしていたらしい。
振り向きたくない。何もされないとしても。
「……放っといて」
迷惑じゃないように小声で言った。
前職で稼いだ貯金があるから、家賃や保険金はまだ払えている。とはいえ二年もあれば底をつくだろう。
それまでに諦めて野垂れるか、諦めて働くか選ぶつもりだったのに。誰の干渉も受けたくなかったのに。
「お願いだから見ないで」
私は目を閉じて体
どんな反応も期待はしていない。呼び掛けに応えることも、反発することも。ただ確かめないまま置いておくことが怖かった。
やがて深呼吸をすると、恐る恐る目を開ける。
タマは無表情だった。
しかと開かれた二つの点目と、引き結んだようなハイフンの口。タマは怒ることも悲しむこともなく、ただ私を見ていた。
息が詰まるのを感じつつ、悔しさのような感情が沸き立つ。
「普通じゃないんでしょ、あなたが見えるのは」
私は聞こえよがしに
タマは表情を変えない。
「きっと前の人もそうだったのね」
きっと普通じゃない。普通じゃなかった。オカシかった。
知りもしない前の住人をことごとく貶すと、タマは点目の両外側に小さな円をそっと足した。
同時に、私自身が流している涙にも気付く。
言葉を失った私は、しばらくしてベッドから降りた。
傍にしゃがんで、タマを天辺から優しく撫でる。
「……これで良いの?」
タマがこちらを向いた。
目尻の雫を模した円はそのままに、口がにっこりと逆アーチを描いている。
私は堰を切ったように泣き崩れた。タマ達に何度も謝った。卑屈さを盾にし続けたことを情けなく思う。
私もタマみたいに、ただ誰かに愛されたかった。
あの日以来、私は大家さんや隣人さんから前の住人について聞くようになった。
五年前に一人で越してきたというその男性は、初めは定期的に機材を運ぶ他に外出をしなかったらしい。さらに急な奇声や啜り泣く声が聞こえることがあり、当時から住んでいた隣人さんはしばしば不安に駆られたという。
けれど二年ほど経つと、周囲はスーツ姿の彼をよく見かけるようになった。たまに声を掛けると最初こそぎこちなく対応しつつも、徐々に落ち着いた物腰で話すようになったという。
その後の引っ越しは本人の目標のための決定らしく、挨拶に回られた大家さん達は口々に、彼が清々しい面持ちをしていたと話している。
あの日から今までの七ヶ月間、私は前の住人の苦労と葛藤を何度も想像した。
少しでも現状を良くしようと決めた私は、職業訓練を積極的に行うようにした。いきなり転職活動に踏み切るのは難しくても、できることから少しずつやっていくつもりだ。
隣人の奥さんは近場で募集しているアルバイトの待遇に詳しく、何度か助言を頂いた。奥さんは私の境遇に前の住人を重ねているらしく、できる限りの協力をしたいと言ってくれた。その気持ちだけでも十分に痛み入る。
私は今日も夕方に帰ってきた。
自室の六畳部屋には、まっさらなフローリングが広がっている。
タマがいなくなってから一ヶ月が経つけれど、未だに部屋の中央には空洞が空いたような寂しさを感じる。それでも我武者羅に生きていれば、いずれは別の何かで埋められる時が来るのだろう。
私はベッド側の壁に貼り直されたメモをそっと剥がして、最初は理解できなかった後半の文をもう一度読む。
『もしヤツが見えなくなったら、
多分、あなたが頑張ってきた証です。
だからどうか悲しまないでください。
前の住人より』
きっと、頑張る時は一人だとしても。
私はここにいない大勢に支えられて立っている。
その全員に報いることは難しいけれど、そのためなら心豊かに生きてもいいんじゃないかと思えた。
共棲2 憂杞 @MgAiYK
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