かなしみとサヨナラ 3
これまで何日もかけて少しずつ僕の事務所まで来ていた老婦人……糸の祖母は、僕たち二人の姿を認めるや否や、ついて来るようにとでも言うが如く突然、動き出した。
僕たちは糸の祖母に導かれるまま、その後ろを歩くのだが、その凛とした姿は、糸に良く似ている。
「何処に向かっているんだろうね?」
隣りを歩く糸を見れば、信じられないものを見ている顔で、自身の祖母の背中を凝視していた。
何を驚くというのだろう。
糸は、これまでだって……と思いかけて、驚かない方が無理だなと考え直した。僕だって目の前に、両親や祖父が現れたら驚くに違いないからである。
「……家、です。家に向かっているんだと思います」
糸の暮らす祖母の家。
そこまでの道すがら、糸は亡くなった彼女の祖母との話を僕に聞かせてくれた。
「祖母とは、生前あまり行き来をしていないんです。離れて暮らしていた所為もありますが、母と祖母の仲は良い方では無くて……顔を合わせるとすぐに諍いになってしまうんです。だから、滅多に会いに来ることはありませんでした。
ただ、中学生の頃夏休みに一度、わたし一人で祖母の家を訪れたことがありました。二週間ほど一緒に暮らしたその年に、祖母は突然亡くなって……」
「それって、君の家出だ。そうでしょう?」
そうです。と、恥ずかしそうに糸は笑った。
前を歩く祖母の背中を真っ直ぐに見ながら、話す糸の白いフレアスカートが、歩く度ひらひらと舞うように揺れる。
「迎えに来た母と、また言い争いになり喧嘩別れをしたまま……。どちらかと言うとわたし、祖母と良く似ているんです。だから……祖母の気持ちも、母の気持ちも……。お互いが、自分の気持ちを言葉にしたくても上手く出来ない、却って拗らせてしまうというもどかしさ故に諍いが起こるのを、目の前で見ていました」
糸の祖母の家が、遠くに見えて来た。
「あの夏休みの日々、祖母は良く縁側に座り庭を眺めていましたが、何を思っていたんでしょうね。わたしが何よりもよく思い出すのは、その祖母の背中です。おそらく、それはわたしがいない時も同じようにしていたのでしょう」
家の前まで来ると糸の祖母の姿は、すうっと消えてしまった。
「……家の中かな?」
「庭……庭じゃないでしょうか」
縁側から眺めていた庭。
「母たちが……母は双子の姉妹なんですが、母たちが産まれた時に植えた庭木があって、縁側に座ってよく眺めていたのは、おそらくその木だと思うんです」
僕と糸が庭にまわると、果たしてそこに糸の祖母の姿はあった。
「金木犀と銀木犀です」
金木犀の花言葉は、謙虚、謙遜、陶酔。
銀木犀の花言葉は、高潔、あなたの気をひく。
僕たちに背を向けたまま糸の祖母は、すっと地面を指差した。そこに何かが埋まっているのだろうか。すぐさま地面を掘り返すと、あまり深くない所にそれは埋まっていた。
茶色い錆が浮いてしまってはいたが、かつては花模様の美しいお菓子の缶だったもの。
それを取り出し、見上げる先に立っていた糸の祖母は優しい笑顔を浮かべ、今度こそ完全に消えてしまった。
「……開ける?」
頷く糸の目の前で、錆び付いてなかなか開かない蓋をこじ開けて見ると、そこには沢山の……。
「手紙……?」
切手まで貼られているのにも拘らず、出されることのなかった何十通もの手紙が、入っていたのである。
それらは一度に書かれたものではないことが、封筒の劣化具合や切手の額面を見ても、すぐにそれと分かるものだった。
またその宛先は、どれもみな家族に向けたものだ。先に亡くなってしまった糸の祖父宛の届く筈のないものもあり、不思議なことにそれにも切手がきちんと貼られている。
「色々あるけれど、お祖父さん宛の次に君のお母さん宛が、多いね」
「どれも全部……書いても出さなかった? でも、どうして今になって……」
「さあね? でも、それはもしかしたら君が、いちばん良く分かるのかもしれないよ」
金木犀と銀木犀には、共通する花言葉がある……それは『初恋』だ。
糸の祖母は、初恋を実らせたのだろうか。
孫娘の初恋を、応援しに来たのだろうか。
思っていることは仕舞い込んだままにせず、伝えなくてはいけないと、僕もまた糸の祖母に言われているような気がした。
「……わたし。ずっとシキさんに言いたかったことがあります」
庭の水道で手を洗い、糸に借りたタオルで手を拭っている僕の背中に、張り詰めたような糸の声が当たる。
糸と向き合うために振り返った僕に、ほんの一瞬、咲いてはいない、春には咲くはずのない金木犀の甘い香りが鼻を過った。
「距離をおかれたり、特別だって言ってくれたり、たまに優しくわたしに触れる手も、全部よくわかりません。
それで胸が苦しくなったり、嬉しくなったりそういうことで振り回されてしまうわたしは、どうしたらいいんでしょう?」
糸の口から零れ落ちるように、こうやって改めて聞かされる言葉のどれひとつを取っても、それはみな僕の狡さだ。この気持ちを、ちゃんと言葉にして糸と向き合うべき時は、もうそこまで来ていた。
「初めてなんです。こうして誰かと一緒に居たいと思うことも。それなのに、どうしてか逃げてしまいたくなるんです。
……怖いんです。自分の感情が。
些細なことで嬉しくなったり、胸が痛んだり、苦しくて堪りません。これが恋というものなのだと今はもう、はっきりと分かってしまいました」わたし……。
糸がその言葉を口にする前に、僕はそっとその柔らかな唇に指で触れる。
「……糸」
僕はゆっくりとした動作で、唇から指を離すと糸の手を取った。
怖がられ逃げられてしまうのではないかと恐れる気持ちが、また甘く苦しくも曖昧で心地よい関係を壊してしまうのではないかと不安になればなるほど、僕もまた胸が痛い。
「名前……」
「……えっ?」
「ようやく、ちゃんと名前、呼んでくれましたね?」
そう言って、くすぐったそうに笑った。
夜が始まる前の、大地や草木に闇を落とし地平線を朱色に、空が幾重にも重なる虹色に染まりゆく時間。
僕は絡めとった糸のその細く白い指を、口元に寄せる。
冷んやりとした糸の指が、熱を持つ僕の唇に心地よい。覗き込んだ糸の瞳に映る自分の姿を、僕は、なぜか懐かしい気持ちで見る。
「……糸。気づいてなかったの? 僕の心は、すでに君で占められているんだって。
……降参するよ。
僕は、君といると自分が少しだけ、ましな人間になったような気になれるんだ」
「それって……?」
もう片方の手を糸の腰に回して、僕の方へとぐっと引き寄せた。
そのままゆっくりと糸を抱きしめ耳元に顔を寄せ、囁いた僕の言葉は……。
宵闇に溶けて、やがて夜空を飾る最初の星になるのだった――。
《了》
北村ふしぎ探偵事務所 石濱ウミ @ashika21
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます