かなしみとサヨナラ 2


 

 宗田くんが僕の元に訪れてから数日後。

 その着物姿の老婦人は、いまや事務所の扉の前でじっと佇み、視線は何処にあるのかは分からないが、顔は部屋の中へと向けられている。


 近づいて来ているのだ。

 ゆっくりと、僕の方へ。


 試しに話しかけてみても、聞こえているのかいないのか、言葉は何も返っては来ない。

 正確に言えば、老婦人の焦点の合わない目を見ても分かるように、顔は部屋に向けられているものの僕のことを見ている訳ではないのだったが、扉の前に人影を感じながら部屋の中にいるのも気詰まりなので階下したの喫茶店へと避難することにした。

 いつもの席に座った僕に、マスターがちらとこちらに視線を寄越した後にコーヒーを淹れる準備を始めるその手元を見ながら、持ってきた本を開く。


 しばらくして入り口の扉のベルが、柔らかな音で来客を知らせた。振り返らずとも誰が来たのかは、その音で分かる。


 ……糸、だ。


「やあ、糸ちゃん。待ち合わせかい? 今さっき四季くんも来たばかりだよ」


「こんにちは。偶然ですよ。待ち合わせは、していませんでしたよね?」


 糸が、ちらりと僕の方を見たようだが、本に顔を落としたまま気づかない振りをした。

 いや、その通り偶然ですよ?

 約束はしていないけれど、その言いようだと偶然でも会えて嬉しいのが僕ばかりに思えて、少し複雑な気持ちになったからである。


「おや? 糸ちゃん? セーラー服は、もう着ないの? それとも今日は学校じゃなかったのかな?」


 糸が僕の隣りのスツールに腰を下ろす気配を感じ、本から目を上げた。


「一度、帰って着替えて来たんです」


 見れば、両手を広げながらそう言って、くすみミントグリーンのトップスに白のフレアスカートを合わせた春らしい装いをした糸の姿に、マスターが鼻の下を伸ばしているのを目の端で捉えた僕は、やれやれと首を振る。


 そんなマスターに気づいているのかいないのか、長い髪を形の良い耳に掛けながら糸は、僕の方を見て「何を読んでいるんですか?」と可愛らしく小首を傾げる。

 僕は読んでいた本を閉じ、その背表紙を見せながら微笑み返した。


「……これ」

「シキさんの読書傾向が全く分かりません」

「そう?」


 笑顔を見せる糸に、思わず目を細めた。

 会いたかったのは、僕だけじゃないと自惚れてしまうような笑顔だった。

 休日は勿論、学校帰りに事務所へ顔を出す時でさえ、セーラー服を着た糸を僕は随分と見ていない。


 ……その理由は、分かっている。

 だから少し悪戯をしてみたくなるのだ。


 過去のあの日のように僕は片方の手で頬杖をつきながら、もう一方の手を伸ばすと、糸のその長く綺麗な髪を一房掬い上げた。

 

「セーラー服、可愛かったのにね?」 


 耳まで赤くした糸が、僕を上目遣いで軽く睨みながら「……イジワル」と小さな声で言うのが聞こえた。視線を絡ませた僕は、唇だけで笑うと手の中にある糸の髪を、ゆっくりと口元に寄せてゆく。

 ビクッと肩を震わせた糸だったが、僕に絡め取られたその視線からは逃れられない。僕は糸をじっと見つめたまま挑むようにそっと、その滑らかな髪に唇をつけた。


「……えーとゴホッ、ゴホン。コーヒーをお出ししても宜しいでしょうか?」


 わざとらしい咳払いをしたマスターが、糸の髪から手を離した僕の前にカップを置きながら顰めツラを装いつつも温かな眼差しを僕に向け「そういうことは他所でやって欲しいなぁ」と誰に聞かせるでもなく呟く。

 マスターが糸の前にも同じようにコーヒーをサーブしたのを見計らって、僕は言う。


「誰も居ないところで、こんなことは出来ませんよ」


「……四季くん?」


 温められているカップを両手に持ち、僕はマスターに笑顔を向けた。


「なぜって……ほら、僕のことを止めてくれる人が居ないと……ね?」


「……?!?!」


 ガシャン、とカップとソーサーが触れ合うには大きすぎる音を立てたのは、糸だ。


「冗談だよ」


 言いながらカップに口を寄せ横目で見ると首筋まで赤く染め、俯く姿の糸がいた。


 あ、やりすぎたかな。


「し、しししし四季くん!? し、信頼して良いんだよねッ?」


 マスターが手に持つ白い布巾を、まるで雑巾のように絞り上げながら念を押してくるから僕はまた、悪戯をしたくなるのだった。

 ……流石にもう、しないけど。


「そう言えば、君。お祖母さんの家に暮らしているって言ってたよね?」


「……ええ。そうですけど?」


 コーヒーを口に含み気持ちを落ち着かせた糸は、僕の方を向いて首を傾げるもまだ少し耳の縁が赤い。


「ひとつ聞きたいことがあるんだ」


 ……。


 僕の話を最後まで黙って聞いていた糸は、最後にひとつ静かに頷く。

 やはり、そうだった。予想していた通りの言葉を聞いた僕は、コーヒーを飲み終える糸を待って事務所に来てくれるよう促すと、マスターに会計の合図を出した。

 糸を連れ、事務所の階段を上る。



 ――前に一度、糸から聞いた。


『祖母の家から通える高校を選んで、この街に越してくることにしたんです』 


 祖母の家で暮らしていると糸は言ったが、祖母と暮らしている、とは言ってはいないのである。


 つまり……。

 事務所の扉の前で佇んでいる藤色の着物姿の老婦人は、僕の考えが正しいのなら……。


「お祖母ちゃん……? どうして」


 亡くなった、糸の祖母だ――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る