終章 再びの春

かなしみとサヨナラ 1



 ……また、だ。


 藤色の着物を着た老婦人がいる。

 最初その姿を見たのは、春の柔らかな雨が降る午後、事務所の階下したの喫茶店でコーヒーの入ったカップに口を寄せ、ふと窓の外を見たとき。

 コーヒーを口に含み、鼻に抜けるそのスモーキーで甘い果実に似たかぐわしい薫りに、自然と瞼を閉じた。

 待ち合わせなら、喫茶店の中に入って待ったら良いのにと、佇んでいる老婦人を少し心配した。春とはいえまだ寒い。雨が身体を濡らしては、きっと風邪をひいてしまう。

 あれ……? 

 傘は、どうしたのだろう。

 はっと目を開けた時、その老婦人の姿は、もうそこになかった。


 次にその姿を見たのは、事務所へと上がる暗く翳る階段の入り口。


 同じ藤色の着物にきつくゆわいた銀髪の、上品そうなその老婦人は歳が刻んで緩くなった肌をしていても、若い頃はさぞかし美しかったに違いないと分かるその顔を、物思いで曇らせていた。

 僕は良く似た雰囲気を持つ人を思い浮かべながら、その脇を擦り抜けるようにして、事務所へと続く階段を上る。


 その時に初めて気づいたのだ。


 この老婦人は、僕にしか見えていないんだと――。





 「オレさ、その話を聞いちゃったら、もう何も言えないってゆーの?」


 椅子の上で身体を反らし手を頭の後ろに組んだ宗田くんが、口を尖らせ僕を睨むその顔は、あどけなく見える。


 また再びの春が来て、土手一面の菜の花が黄色くけぶる頃。宗田くんは、あれから遠のいていた僕の元に、突然ふらりと訪れた。

 稜の話を聞かせて欲しいと言って。


 泣いている稜を背に、僕と糸はあの場から去った。その後の稜のことは、分からない。また、僕の前から姿を消してしまったからだ。

 それでもあまり心配は、していない。

 時が来ればまた、出会えるだろうと思っている。何故なら僕と稜の関係は、共通重心を持った軌道を描く惑星に似ているからだ。


 そう。近づいては離れるを繰り返すんだ。



「高桜さんは……? ここに来てる?」

「前ほどじゃないけど、来てるよ」

「へぇ?」

「……な、何?」

「上手くいってんだ」

「……? 何が?」

「ばッ、馬鹿なの? 四季さん? お付き合いに決まってるでショ?!」

「僕と糸は、まだ何もないよ」


 その一言を聞いた途端、凄い勢いで椅子から立ち上がった宗田くんは「あんなことがあったのに……やっぱり四季さんは、何も変わってない!」と大きな声を出す。

 肩を震わせ苦しそうに歪む宗田くんの顔に、僕は静かな視線を送る。


「そんなんで良いわけ? 例えば、オレが本気になったら四季さんはどうするの?」


「宗田くんの気持ちは、君のものだ。だから、好きにすればいい」


「マジで? それマジで言ってんの? 前にあんな事あっても? また繰り返すんだ?


 オレさ、高桜さんを見ていて分かったんだ。彼女は、真っ直ぐに四季さんを見てる。

だから、その一途さに目が眩んだ。いつの間にかそんな彼女を目で追ってた。


 ……オレは、四季さんの知らない高桜さんを知ってる。それでも高桜さんには、四季さんが良いとも分かってる。


 だから……なんだよ、それ。

 なんなんだよ。

 オレ、勝手にだけど、四季さんは、もっとちゃんとした人になったと思ってた。子供っぽいところはあっても、ちゃんとした……」


「ちゃんとした大人だよ。それにね? 君は僕のことを良い人だと勘違いしているみたいだけど、本来の僕は君も言ったように誰のことも興味が無いんだ。興味を持たないようにしていたんだよ。……でも、もう違う。君のことも、彼女も大切だ。

 だからね。

 ……宗田くんの想い、それは君の好きにすれば良いってこと。

 僕も、好きにするから」


「……え?」


 ぽかん、と口を開けた宗田くんに僕は、少しだけ笑いかけながらも、とはいえその笑いに、ほんの少し自嘲気味なものが加わってしまうのは仕方ない。

 なぜなら……。


「まあ、糸のことは誰にも渡したくないのは、その通りなんだけど……大切すぎて、どうして良いのか分からないってのもあるし」


「え、何……その頼りない宣戦布告。四季さんって……や、いいです。あーもう、なんでもないッスわ」


 でもやっぱ、ちゃんとした大人なんデスね、と再び椅子に腰を下ろし不貞腐れ気味に呟いた宗田くんに向かって僕は今度こそ、にやりと笑って見せた。




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