パンドラの箱から恋が始まることを、この時の僕はまだ知らない

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

パンドラの箱から恋が始まることを、この時の僕はまだ知らない

 スマートフォン。


 それは現代に生み出されたパンドラの箱パンドラ・ボックス


 このパンドラの箱がいにしえのパンドラの箱と違うのは、開く者によって飛び出してくるモノが変わるという所だろう。


 正当なる所有者が開けば快楽が、それ以外の者が開けば災厄が飛び出す。そしてその災厄は、正当なる所有者に向かって飛んでいくのだ。


 ……というわけで、僕は今全力のBダッシュをかましていた。


「ぬぉぉぉっ!! スマホ忘れたぁぁぁぁぁああああああっ!!」


 全てはパンドラの箱、もとい、我がスマホを取り戻すため。


 よりにもよって、分かりやすく学校の机の上に置き忘れてしまった、我がスマホを回収するため。


 ──ヤバイヤバイヤバイヤバイ……!! 万が一中身を見られたら……っ!!


 冒頭の中二病感からも分かるように、僕は生粋のヲタクだ。『オタク』ではなく『ヲタク』と表記したいレベルの。しかも高校生男子としてド健全な感じに……その、あの、なんだ。……察しろっ!!


 ──中身を見られなくても、ゲームとか支部とかアプリとかSNSとかの通知がポップアップに出てたら……っ!!


 それだけでも普通にオーバーキルを喰らう。せっかく高校デビューを機にヲタクを完全に隠して普通の高校生男子を演じることに成功していたのに……っ!! え? だったらポップアップなんて出ないように設定しろって? バッカ、お前、最新情報は常に最速でチェックしなきゃなんねぇだろそのためのポップアップだよっ!!


 僕は学校までの道のりをかつてない速度で走り抜けると教室のドアの前で急ブレーキをかけた。冷静になれ、僕。ビー・クール。焦りすぎていては逆に不審がられる。


 僕は深呼吸を何回かしてから、努めて平静を装って教室のドアを開いた。綺麗な夕焼けが窓から差し込む教室は、ラブコメでも始まりそうな雰囲気を醸している。


 ──ギャルゲでもなんか、こういうシチュあったよなぁ……じゃくて!!


「……西条にしじょう君?」


 僕がヲタクな思考をにじませた瞬間、か細い声が教室の中から聞こえてきた。無人だと思っていたのに誰かがいたという驚きと、その声の主が誰だか分かった驚きで僕の肩は大げさに跳ねる。


「どうしたの? 忘れ物?」

「は、春咲はるさきさん……!!」


 教室の中に一人だけ残っていたのは、クラス一の美少女、春咲仁菜になさんだった。


 清楚に着こなされた制服。サラリと肩下で揺れる黒髪。表情があまり出ない整った顔。言葉を発することが稀で、授業中先生に指名された時しか聞けないか細い声は、小鈴を振るかのように繊細で美しい。


 この神秘的な美少女は、なんと僕の席のお隣さんだった。僕は隣の席のよしみで日々美味しい思いを……している、と言えたら良かったのだが、残念なことに交流はあまりない。ヲタクを隠すことはできても、いきなりコミュ力を上げることなんてできないんだよ、僕には!!


 そんな春咲さんは、自分の席に座って、何かをいじっているようだった。ペンを握っているようにも見えるけど……もしかしてタッチペンとタブレットか? あれ。


「あ、えっと、……そう、忘れ物! 忘れ物を、取りに戻ってきて……」

「……そっか」

「は、春咲さんは?」

「私は、ちょっと、用事が」


 驚きに少しだけ目が丸くなっていた春咲さんは、僕と言葉を交わしている間に手元に視線を伏せていた。……うわぁ、やっぱよく見るとまつげ長いんだよなぁ、春咲さん。


 ……ってそんな場合じゃなくてっ!!


 僕はソロリと視線を動かして自分の席……春咲さんの隣の席を見た。


 ある。やっぱある! 僕のスマホっ!!


 幸いなことに、画面は暗い。今までもずっと暗かったことを切に願う。教室内に春咲さんしかいなくて、俺が置いたままスマホがお行儀良くしているということは、誰かに置き忘れが見つかって興味本位でいじられる、なんていう最悪なシナリオは回避できたのだろう。ガッチリ8桁のロックが掛かっているからそうそう開けられることはないはずだけど、とにかく何かの通知をポップアップで見られたら(以下略)


 僕は跳ね上がる心臓を押し隠して、努めてクールに自分の席までのわずかな距離を進む。春咲さんはすでに僕に興味を失ったのか、手元のタブレットをタッチペンでコツコツと叩いていた。


 ──……春咲さん、わざわざ学校にまでタブレット持ってきて何してんだろ?


 スマホに比べればやっぱ重いし、大抵のことはスマホで用が済むはずなんだけども。


 自分の席に向かう途中、僕はそんな興味からわずかに春咲さんの方へ身を乗り出す。


 あれは……青鳩か? 何か投稿してる……?


 その瞬間、だった。


 あともう少し、あとわずかでスマホが僕の手に納まるかという所で、ブブッというバイブ音。パッと画面が明るくなり、ロック画面上にポップアップ通知が表示される。


 その、内容とは。


『“はるうさ@18禁絵描き”さんがツイートを投稿しました』


 ──ぬぁぁぁぁあああああああああっ!? よりにもよってそんな分かりやすくヤバいアカウント名の神絵師様がぁぁぁぁぁっ!!


 心の叫びを押し殺すのに全神経を使い過ぎたせいでスマホの回収に動いた手が動きを止める。その瞬間、春咲さんの目が確かに僕のスマホを見た。ハッと驚きに目を瞠った春咲さんの動きが止まる。


 その瞬間、僕も見てしまった。


 春咲さんがタブレットに表示させている、恐らく春咲さんの青鳩アカウントの画面を。


「……え?」


 それがなぜか、俺がよく知っているお方のアカウントで。その一番上には、恐らく今投稿されたのであろう、今回もまた素晴らしく美しくエロ……失礼、可愛らしい少女のイラストが表示されていて。恐らく今、僕のスマホに出たポップアップは、その投稿をお知らせするもので。


 簡単に言ってしまえば、僕が日々崇め奉ってファボリツを欠かさない神エロ絵師『はるうさ』様のアカウントが、恐らく御本人様の端末でないと見ることができない表示のされ方で、表示されていた。


「…………え?」


 フリーズする僕。フリーズした春咲さん。多分きっと、流れる時間さえしばらくフリーズしていたと思う。


「あ……あ……あ……っ!!」


 急冷から解凍されるのは春咲さんの方がわずかに早かった。プルプルと震える春咲さんの顔は徐々に赤くなっている。普段の無表情はどこに行ったのか、今の春咲さんは羞恥と驚きに泣きそうな表情を目いっぱい浮かべていた。


 ──な、何か言わないと……!!


 僕は焦って口を開く。


 だけどこういう時にいい言葉が出てこないのがコミュ障がコミュ障である所以であるわけで。


「は、はるうさ様っ!!」

「ヒッ!!」

「ファ……ファンですっ!! 推してますっ!! 尊いエロをいつもありがとうございますっ!! 青鳩の規制の網を掻い潜る大胆にして繊細なイラスト、本当に好きですっ!! あ、こ、この間上げてた百合、まじで至高っす!! つ、続きをぜひ……っ!! あ、あ、いつもファボリツ押し付けて無言逃走でサァッセンッ!!」

「ファッ!?」


 結果、春咲さんは逃げた。


 まさに三十六計逃げるに如かず。見事な逃げっぷりだった。途中で机をなぎ倒し、ドアにもぶつかっていったけど、彼女の足は大丈夫だろうか。神絵師として手と腕周りを徹底的にガードしていったのはさすがだと思うけども。


 ──イヤイヤイヤイヤ……僕、バカじゃねぇの……?


 取り残された僕は、思わずズルズルとその場に座り込んだ。ラブコメが始まりそうな綺麗な夕焼けだけが、そんな僕の背中を温めてくれる。


 ──あそこは普通見なかったフリするべきじゃん? 何盛大に自爆してんの? 何巻き込み自爆してんの?


 スマホは現代におけるパンドラの箱。タブレットも同様であったらしい。


 僕は盛大に一人反省会を開催しながら、重く溜め息をついた。


「……アカウント、消されちゃったらどうしよう……」


 明日、どんな顔して会えばいいんだよ。……いや、その前にTLでどんな反応したらいいんだよ……あ、でも僕、そもそもこっちのアカウント名名乗ってないし……




 ……そう悩んだ僕のアカウントに『はるうさ』様の方から直々にDMが来るのはこの日の夜のこと。


 パンドラの箱を開いたら神エロ絵師が隣の席の美少女で、教室に忘れたスマホから僕と彼女の交流が始まって、やがて本当にラブコメみたいな恋をすることを、この時の僕はまだ知らない。




【END】

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