月も照らすな 我の行くまで

micco

月も照らすな 我の行くまで ~盛子~

 一、童


 春が深まる暖かな昼のことだった。

 立派な水干すいかんを来たわらわが「我が殿からです」と、盛子せいこ宛のふみを持って来た。皆で不審に思い、桜の蕾の枝が添えられた文を読んでみれば、確かに恋文だ。差出人はなくとも、ふみにたきしめられた香で大変な身分の人と分かる。

 まさか、裳着もぎを終えたばかりの盛子に恋文が届くとは誰も思っておらず、にわかに上を下への大騒ぎになった。色めき立つ若い女房たちに対して、「何と急な! 無視なさいませ!」と怒り騒ぎ立てる乳母めのとを収めつつ、盛子は独り胸を高鳴らせて夜を迎えた。


 どんな殿方が来て下さるのかしら……!


 しかし、健康的な少女は夜半過ぎまで起きていたことなどない。脇息きょうそくに寄り掛かったまま、眠り込んでしまった。


 そうして朝方、盛子は揺り起こす振動に眠い目を擦った。いつの間にか横たえられて、誰かが膝枕してくれたようだ。体は温かいぬくもりに包まれていた。まだ部屋は薄暗いものの、朝の気配が漂っている。

「殿方は……来なかったのかしら……」

 盛子は乳母かと思って、甘えて膝に顔を擦りつけた。大きな手が頭を柔らかく撫でる心地よさに目を細めた。

「……まるで君は猫のようだな」

 低い声。盛子はハッと目を開き、身を固めた。


 乳母ではない……!


「大丈夫、幼い君に何をすることはないよ、安心しなさい」

 大きな手が再び頭を撫でたので、彼女は恐る恐る身じろぎし、起き上がった。その途端、文と同じ香りがして盛子はあぁこの方なのだ、と男の膝の間から顔をまじまじと見上げた。薄暗さにも相手の顔立ちのよさが見てとれて、盛子は驚きのまま瞬いた。

 思ったより大人の方だわ。

「そのように不躾に見ては……そうだった、まだ子どもだった」

 ハッハッハ、とおかしそうに男は笑い、「どれもう朝だから帰るとするよ」と言ってまた盛子の頭を撫でる。

 盛子はその子ども扱いにムッとして口を尖らせた。

「わ、私、もう成人しております……!」

 おや、と男は眉を上げ面白そうに盛子を見つめた。そして自分の衣を彼女の肩に掛ける。

「では今夜も通って来てもよろしいか、我が君? よければ文に返事を」 

 と、男は御簾みすからするりと出て行った。まるで風のように跡形もなく。けれど手元に残された衣の温もりと香で、盛子には夜が明けるまで彼が傍にいるような心地が続いた。



 盛子は今朝別れてすぐに届いた文に目を落とす。もう何度広げたか分からず、すでに皺がついている。その情熱的な歌を口ずさんだ。


 頼りなき 帰り路匂ふ 深見草ふかみぐさ 思う心に しぼる袖かな

                 近衛基実このえ もとざね

(あなたに思われていると確証のない帰り路に鮮やかな牡丹の咲くことよ。あなたを思う心に涙が溢れて袖が絞れるほどです)


 盛子は顔を上げて庭に咲く白牡丹を眺めた。満開に咲いて春の夕べを明るく灯している。

 返事はすぐに出した。

 早く夜にならないかしら、と盛子は文を抱いた。


 三日後の朝、「ついこの前まで紐付け衣ひもつけごろもを着ていたのに」と、乳母がさめざめ袖を濡らす。朝からずっとこの調子だった。基実は習わし通り、盛子の元に三日続けて通った。そして四日目の朝には共に餅を食べ、二人は正式に夫婦となったのだ。


 お父上も喜んで下さったんだから、そんな風に泣くことはないのに、と盛子は口を尖らせた。

 糊のきいた真新しい袴を着け、「もうすぐご正室になるのですから」と何枚も衣を重ねられる。まるで若紫の生き写しのような可憐さですね、と盛子を女房達が褒めそやす。盛子は、ずし、と肩に掛かった立っていられない程の重さに、抜いたばかりの眉を寄せた。


 本当は、衣は軽い方が好きだけど、仕方がないわ。──あの方に相応しい妻になると決めたもの。


 盛子は基実の面影を思い出し、初恋に頬を染めた。

 九つの春のことだった。





 二、人妻


 盛子と基実の結婚はすぐに調い、間もなく盛子は基実の御所ごしょに移った。

 北の室から眺める庭には、散り終えてはいたが鮮やかに牡丹が植えられており、盛子の心をホッと和ませる。元は植えられてなかったと聞けば、基実の心配りかと訪れが待ち遠しい。


 二十二歳の基実は、十二離れた盛子と無体に契ることはなく、まるで猫を可愛がるように膝に乗せたがった。

 盛子はそれが嬉しい反面、時折不満に感じられて「私はもう成人です」と彼に言う。しかし笑って相手にされず、むくれた方の彼女が寂しくなっては仲直りし、結局は膝に乗せられ撫でられる夜を過ごすのだった。

「もう少し大人になったらね、私の深見草白牡丹


 もう成人してるのに。私はもうあなたの妻なのに。


 盛子は苦しく物思いはするものの、この結婚の意味を理解できる年にもなっていた。


 盛子の父清盛は、今上帝である二条帝の後見人。

 基実は、二条帝の関白だ。

 平家と摂関家せっかんけの婚姻がどちらに利をもたらしたのか、など全く知らない。しかし盛子は、基実が自分を見初めて結婚を申し込んだ訳ではないのだろう、と幼いなりに悟った。

 女房たちが言うような恋人同士の逢瀬を基実は盛子に求めない。


 もしかしたら父上が強引に約束を結んだのかもしれない、と盛子は物思いに沈むことが増えた。

 彼が通って来るのはきっかり五日に一度だけ。


 私は基実さまに愛されていないのだろうか……。早く、早く大人になりたい……!


 けれど彼は今夜来ない。だって昨日来て下さったから、今はきっと他の妻の所へ通っているのだろう。

 盛子は涙を袖で拭った。ぐす、と独りきりの布団で鼻をすすった。寂しかった、他の妻が羨ましかった。

 妬ましかった。

 油の尽きかけた火がじ、と揺れて彼女の影をおぼろげにした。



 基実と結婚して1年経った頃、盛子は文箱ふばこに大切にしまっていた基実からの文が全てなくなっていることに気づいた。

「文がない!」

 彼女は青ざめ、女房どころか庭に詰める蔵人くろうどまで駆り出して御所中を探し回った。誰かが持ち出したに違いなかった。しかしどこにも見つからない。

 最近、盛子の室では女房たちが次々に体調を崩し、新しい女房や他の室の担当が出入りすることも多かった。

「人の出入りが激しかったからでしょうか」と乳母が頬のけた顔で目を伏せた。乳母はこの御所に移ってから、「このような綺羅きらとした場所では落ち着きません」と、一気に老け込んでしまっていた。

 乳母は頬に影を落として「盛子さま私もいとまをもらいたく存じます」と涙で袖を濡らした。

「このような恐ろしい所……わたくしは、もう……」

「どうしたの? 恐ろしいなんて……何が怖いの?」

 盛子がいくら問いかけても、彼女は詳しく語らず首を振る。ぱら、と白髪の目立つ髪が顔に落ち、殊更老婆を哀れに見せた。

 盛子は乳母の手を取って「どうか、あなただけはずっと一緒にいてちょうだい。あなたしか頼る人がここにはいないの」と体を寄せた。乳母は弱々しく手を握り返した。

 その頃は盛子も彼との心の通った文が失われた悲しみが原因か、体調を崩すことが増えた。昼間は元気なのだが、夜になると寒くて寒くて仕方なく、腹に痛みを覚えるようになった。


 時雨しぐれが降って木々の色を変える季節になっても盛子の体調は戻らなかった。基実は彼女の体調を労り、昼に顔を見せるようになっていた。

「私の白牡丹、加減は如何かな」

「基実さま……」

 「どれ熱はないね」と基実は盛子を膝に乗せる。頭を撫でる。夜眠れない盛子は彼の体温でとろとろと溶けるように眠たくなってしまう。

 盛子は基実の胸に顔をうずめ、うわ言のように呟いた。

「基実さま……私、どうしても夜に来て頂きたいのです。恋文をいただきたいのです」

 彼女はもうすぐ十一になる。

「……そのはっきりとした物言いがまだ子ども、ということなのだよ。しかし……そうか君ももう大人になる頃なのだね……では年が明けて、また牡丹の季節になったら、君に文を送ろう。いつかのように返事をおくれ」

 盛子は目蓋が赤く腫れるのを感じながら、それは醜い顔と知りながら、基実を見つめた。頬が熱く濡れる。

「ほらそのようにすぐに泣く。熊野詣くまのもうでで君の床払いを祈って来るから」

 盛子は喜びでますます涙を流した。基実は彼女を温かく抱きしめた。


 春になれば……!


 そして遂に年が明け、牡丹の花開く頃。心待ちにしていた基実からの便りは来ず、五日に一度の渡りもなくなった。

 家司が「殿は痢病赤痢にかかった、けがれがあってはいけないから」と基実の言葉を伝え、御所ではなく別の妻の所に居ると教えた。盛子は何度も文を届けさせたが、彼から返事が来ることは一度もなかった。


 基実は牡丹が散りきった長雨の頃、身罷った死んだ。それを待っていたように、盛子の体は初潮を迎えた。

 基実、齢二十四、盛子は十一の夏だった。





 三、後家


 基実の喪が明け秋になると、盛子は否応なしに宮中の政治に巻き込まれていった。同時に盛子の父、清盛は彼女に再婚を強制し始める。


「厭です……! 他の方と結婚なんて!」

「聞き分けよ。一族のためだ」

「……厭です。もし無理にでも仰るのならこの場で自害致します」


 この問答はもう飽くほど繰り返していた。

 清盛は基実が死に、盛子が彼の荘園を受け継いだことに味をしめたらしかった。

 彼女は、受け継いだ荘園の管理と、基通──基実の嫡男──の義母と正式に認められ、後家として摂関家の家長に座していた。

 

 基実さまの残した土地は私が継いだのだから私が守らなければ……私は基実さまの白牡丹、近衛このえ家の女なのだから……!


 清盛は盛子を自害させたくないようで、威圧的な態度で説得を繰り返すものの、最後は青筋を立てて帰って行く。彼女は痛み出した下腹を押さえ、横たわった。

 基実が死んでから、御所は火が消えたようなどこか淀んだ空気が漂っている。夜などあまりの静けさに「鬼が出るのでは」と噂が立っていた。


 「鬼に取って食われてしまえるのなら、どんなに楽でしょう」と、脂汗を浮かべて呟く。基実が身罷り、盛子は彼がどれ程禍々しい人心の渦に飲まれていたのかを知ったのだった。それが今彼女の肩に重くのし掛っていた。


 お父上は、私が死んでは都合が悪い。きっと、基通さまの後見人が他の方になってしまうことを恐れているんだわ……なんて強欲な方……!


 痛む腹を押さえて思案に暮れる彼女の耳に、トト、と可愛らしい足音が聞こえた。盛子は張り詰めていた気を緩め、サッと起き上がった。

「義母上さま、お加減は如何ですか」

 基通もとみちだ。彼は七つで、盛子とは四つ違い。基実に似た弟が出来たようで、彼女はすぐ彼に夢中になった。こうやって足音を聞くと、こっちに来ないかとソワソワしてしまう程だ。

「基通さま、どうぞお入りになって」

 幼子の紐付け衣に目を細めていると、基通が手に持った文箱ふばこをこちらに渡した。おずおずとした仕草が可愛い。盛子は「どうしたの」と手を伸ばして受け取った。

「あの、義母上ははうえさま。母上が義母上さまに持っていくように、と……」

 盛子は驚きに目を見張った。彼女はこれまで他の妻たちと交流を持ったことがなかった。わずかに震える手で文箱を開ける。

 ふ、と香った匂いに盛子はわずか声を漏らし、知らず涙を流した。


 基実さま……!


 彼の衣にしがみつき、顔を寄せた日々が盛子の目蓋に鮮やかに浮かんだ。

『猫のようだ』と微笑む彼、『まるで子どもだ』と言いながら快活に笑う彼、優しく頭を撫でられる温かな心地、まるで彼が傍に……、と思いかけ自分の冷えた体に「あぁ」と泣き崩れる。

 もう、彼はいない。

 その事実を今、改めて突きつけられているようだった。

「義母上さま」

 基通の不安そうな声に、盛子はハッと顔を上げ、涙を拭った。

「大丈夫ですよ、基通さま。お父上のことを思い出してしまったのです」

 基通は困ったような顔でもごもごと挨拶を呟いて、御簾みすを翻して出て行った。その何とも幼い可愛らしさに少しばかり心を和ませた盛子は、箱の中の文を手に取った。

 

   北の方盛子

  秋の夕べの寂しさに思わず拙い筆をとりました。北の方におかれましては、お心安らかにお過ごしでしょうか。

 基実さまのあなたさま宛の文をお渡し申し上げます。わたくしの致すことを、不躾で大変勝手なことを、とお怒りになるかもしれません。その折には謹んでお怒りを受けます。このような間の悪いことで申し訳ございません。

 基実さまの病床の折、私は一寸先すら分からぬ不安の中に居りました。そして基実さまが身罷られた死んだ今も、同じように感じております。

 そして基通のことをどうか宜しく申し上げます。

                  忠隆の娘


 盛子は読む傍から震えが止まらず、乱暴な手つきでもう一枚の文を取り出した。カサカサ、と薄い紙が音を立て彼女の緊張で潰れそうな胸を逆撫でた。指がもつれる。


 ぁ、歌が……


 かんばせに 夜露置きなむ 深見草 月も照らすな 我の行くまで

(その開いた花のような顔に夜露を置いて泣いているのだろうか白牡丹よ。私が行くまでその泣いた顔を月にも誰にも見せてはいけない)


 なぜ、なぜ一目だけでも来て下さらなかったの……! 基実さま!


 盛子は滅茶苦茶になるのを構わず文をただ、かき抱いた。





 四、白河殿


 盛子は冬の手前、白河押小路殿しらかわおしこうじどのに移り住んだので、皆から「白河殿しらかわどの」と呼ばれるようになった。静かな殿で、夜には川の流れる音が聞こえてくる。

 昼間は摂関家の氏行事うじぎょうじなどの仕事をし、寝る前には基実の文を見返しては、思い出に浸る日々を過ごしていた。

 例の文箱には熊野大社の守り袋も入っていたので、盛子はそれを肌身離さず身に着けていた。


 しかし、一度落ち着いていた盛子の体調は、白河殿に移ってきてから再び不安定になる。夜になると悪寒とともに腹が痛む。ギリギリ、と夜半過ぎから絞られるような痛みが続くようになったのだ。

「うぅ……あぁぁ……」と痛みに唸り声を上げていると乳母が慌てて起き出して腹をさする。彼女は耐えがたい痛みに困り果て、方々に頼ったが、薬師も僧も祈祷師からも匙を投げられた。中にはどなたかから恨みをかっているのでは、と言う人も出てくる有様だった。だが盛子は歯を食いしばって耐えた。


 基通さまがご成人されるまでは……死ぬことはできない。私が近衛家を守らなければ。


 やはりある雪の降る晩のこと、盛子は汗を流しながら腹の痛みに耐えていた。寒さと痛みで朦朧とする意識の中、彼女はトトト、と軽やかな足音が響くのに気付いた。


 基通さま……?


 足音は渡殿廊下からこの室に入り、ト、と几帳きちょうの向こうで止まった。


 灯りのない部屋はほとんど闇に沈むようだったが、盛子はわずかに目を開け、起き上がろうとした。確かにそこに誰かいるはずなのに、今度は物音一つしない。しん、と冷える空気に彼女は汗を冷やしながら起き上がろうと肘をついた。何か怖い夢でも見たのだろうか、それならば慰めて差し上げねば、と声を掛けようとした。

 しかしその時、地を這うような低い声が、耳元で囁いた。


 何故死なぬ。く死ね。


 ひゅ、と盛子は恐怖で息を飲んだ。途端ギリギリギリと腹が捻れる引き攣った痛みに盛子は叫び声を上げた。

「ああああぁぁぁぁ!」

 獣のような声を上げても痛みは引かない。のたうち回り、汗が涙が顔中を濡らす。控えの女房がいるはずだが、誰も助けに来ない。誰か。


 疾く死ね、痛い、痛い痛い痛いギリギリギリギリ、疾くああぁぁ死ねああぁぁ死ねああぁぁ……!


 ぬる、と下穿きが濡れたおぼろな感覚があった。どろ、どろりと何かが流れ出す。体から何かが引きずり出される。


 ふふ、ふふふふ、あはは、そう死ね、疾く死ね……


 トトト、と跳ねるような足跡が遠ざかっていく。盛子は遂に意識を手放した。


 目を覚ますと見慣れない女房が余所余所しく「お加減は」と尋ねた。盛子は掠れた声で乳母を呼んだが、あの翌朝血を吐いて事切れていた、と聞きただ目を瞑った。



 盛子は命までは奪われず、若さ故か少しずつ回復していった。冬の間だったことが幸いして、特に大きな氏行事や宮中行事もなく寝殿で寝たり起きたりを繰り返す内に起き上がれる程になった。

 また意外にも心の支えとなったのが、基通の実母が届けさせる文だった。どうやら基通は母恋しさに頻繁に文の遣り取りをしているらしく、盛子の心証を考えてのことであるようだった。それは儀礼的な内容であっても、私信などほとんどもらったことのない盛子にとって、あれやこれやと返事や土産を考える時間は心を和ませるものとなった。


 ただし物の怪は三日にあげずやって来た。月のかげる夜半過ぎ、トトト、と足音が殿中に響く。それは盛子の室の前に入り込み、必ず几帳の前で歩みを止める。


 何故死なぬ。何故死なぬ、疾く死ね。疾く疾疾クククトク、ト、ク、トク疾く……


 几帳越しであるはずなのに、耳元で囁かれる悪意に、盛子は掛布をかき抱いて震える。あの血を流した日以来、腹に痛みをもよおすことはなかったが、乳母を亡くし頼る者のいない室で骨の髄まですすられるような恐ろしさを味わった。

 物の怪の居る間は、基実の守り袋を握りしめ、必死に神仏に祈る。目に浮かぶは最後の穏やかな笑み。


 どうか基実さま、お助け下さい!


 そうして気がつくと真っ暗な室に独りきりになっていて、安堵の息を吐く。そして、あぁ今夜も基実さまの近衛家を守り抜いた、と強張った体を恐る恐る伸ばして眠りに就くのだった。





 五、女


 トトト、足音が響く。

 もう十年以上も聞いていると、怖いという感慨さえ浮かばない、と盛子は暗闇の中で目を開けた。


 疾く、死ね。何故死なぬ。


 何かの呪いなのだろう、と彼女は声を聞く。穢れのあるモノに話し掛けてはならない、と言われ、盛子は疾く去れ、と欠伸をかみ殺しながら几帳をじ、と見つめた。慣れたものだった。

 この十一年、あの物の怪が几帳を越えて盛子の命を奪いに来たことはなかったからだ。子の産めない体になってはいたが、その他は健康に過ごしていた。「女だてらに荘園の管理など」と陰口を言われることはあったが、面と向かって言ってくる者はいない。

 父清盛は何度も再婚を勧めたが、盛子が子を産めぬと知ると諦めたようだった。


 私は近衛家、ひいては摂関家を守るために生きる。


 盛子は若い女であっても、例え名ばかりでも五摂家の家長なのだ。

 

 トトト、と遠ざかる足音に、そっと息を吐き出し目を閉じた。

 今日は月が明るく、物の怪のことがなければ几帳を取り払ってしまいたい暖かな春の夜だった。彼女はいつの間にか微睡まどろんでいた。


 と、密やかな足音に盛子は再び目を開けた。物の怪のものではない、大人のもの。月の光が入るように開け放たれた室に人影が入り込んだ。ぎし、と重みのある影の動きに、盛子はホッとして「どなたです」と声を掛けた。


「義母上」

「何故……基通さま?」


 すでに基通は元服を終え成人していたので、殿を別にして生活している。彼が彼女の室に立ち寄るのは久しぶりのことだった。几帳のすぐ裏に彼は立っているようだった。


「どうなさったのです、このような夜更けに」

「入って宜しいか、義母上」


 盛子は思わず「どうぞ」と言い掛けて、口を噤んだ。もう彼は正室のいる大人なのだ。母と子であっても何か噂が立っても困る、と一気に理性が働いた。


「今夜は……もうお休み下さい、基通さま」

「っ、やはり手順を踏まねば入れてくれませんか。こんなにも思い悩んで足を運んだのに」

「何を莫迦なことを。私達は母子ではありませんか!」


 まずい、と盛子は肌着姿を掛布で隠した。同時に、するりと相手の衣擦れの音にギクリとする。


「無礼と承知のこと。すぐ文を届けさせますのでお返事を待っています。少しだけ、少しの間だけでいいのでお話をしたいのです」

 基通は盛子の答えるのを待たず「では明日の晩に」と言って室を出て行った。彼の影が黒い塊になって天井を這っていった。


 何てこと……!


 あぁ、と盛子は顔を覆った。胸元から、くたびれた守り袋を取り出す。愛しい人の名を呼び、握りしめる。

 しかし目蓋に思い浮かぶのは、基実なのか、よく似た若者の姿なのか、盛子にはもう分からなくなっていた。

 彼女は二十四になっていた。



 翌日、女房が初咲きの白牡丹を盛子の室に飾った。かすかな匂いが彼女の心をざわめかせる。あぁあの文はどこに行ったのだろう、くち馴染んだ和歌を誦じる。

 頼りなき 帰り路匂ふ 深見草ふかみぐさ 思う心に しぼる袖かな

 

 あなたを思う心に、袖が濡れて。

 記憶の色は褪せても、初めての夜の手の温もりは忘れたことはなかった。すでにこの世にいないあなたを思って、濡れるのは私の袖であっても——。

 そうだ、私が慕うのは基実さまだけ。今も昔も変わりはしない。


 枕元の牡丹が重たげに風に揺れた。盛子は基通から文が届いても返事を返さなかった。

 

 しかし基通は現れた。十六夜のまだ月の見えぬ頃、忍ぶような足音に盛子は身を硬くした。念のために羽織った衣が硬く音を立てた。いや、彼の衣の音だろうか。

 

 お断りしたのに、何故。


 けれど盛子の胸は何故か高鳴り、十四年前のままごとのような逢瀬を思い出させた。ときめきを思い出させた。

 今夜も暖かく、温い風が盛子の室に吹き渡って、牡丹を揺らす。わずかな香。カタ、と几帳に手を掛ける音。


「義母上」

「基通さま。……何故、私は返事をしなかったのに」

「聞き分けられず、あなたに会いたくて来てしまいました」


「ダメ」と言う前に、基通は几帳をけて姿を現した。月もなく、灯りもない薄ぼんやりとした春の闇に、基実に似た殿方の姿。盛子はいけない、と思いながらも逃げることが出来ない。


「ずっと……子どもの時分よりお慕い申し上げていたのです」


 「ぁ」と小さく悲鳴を上げる前に、基通は彼女をかき抱いた。は、と熱い息が耳に掛かり訳も分からず震える。押し退けようとしても叶わず、ますますきつく抱かれてしまった。

 盛子は初めての力任せの抱擁に混乱し、羞恥に火照る体で理性が溶け始めていた。基通の、人の温もりを欲してしまう。

 夫が、乳母がいなくなって、誰が私を抱きしめたろう。仮初でも愛を囁いただろう。

 どうせ彼にとっては遊びの恋。義母と通じたなどと噂が立てばお互いにそしりを受ける。だからこれはきっと今夜限り。それならば。


 盛子はおずおずと基通の背に手を回しかけた。気づいた基通が感極まったように、彼女の髪に顔を擦りつける。


「義母上……いや、白河殿……!」


 その瞬間、彼女の燃え上がった熱情が冷えた。基実が死んでから呼ばれるようになった名に、目が醒めるような心地になった。

 盛子は激しく身じろぎし、彼から離れようと暴れた。

 しかし、彼女の抵抗を悟った基通が「もう逃がしはせぬ!」と、暗い目をギラリと光らせて彼女の衣を乱暴に脱がせた。必死に逃げようとするが、体格の違う男に勝てるわけはなく、いたずらに衣が乱れていく。

「お止め下さい!」

 そう髪を振り乱して抵抗したとき胸元がはだけ、身に着けていた基実の守り袋がこぼれ落ちた。

 ぽとり。


 サァ、疾く、死ね。


 基通の肩越しに、目が穴のように落ちくぼんだ女が盛子を覗き込んでいた。

「ひぃ!」

 盛子は悲鳴を上げた。体は基通に拘束され動くことが出来ない。

 女の二つの真っ暗な穴が彼女を闇に吸い込もうとした。盛子はガタガタと震え、うわごとのような声を漏らすが、基通は女に気付いていないのか我を失ったように彼女を追い詰める。

 白い腰帯に手が掛かった。引き抜かれる。同時に女が黒くおぼろげな手を伸ばし彼女の首に巻きつけた。息が。

 ぐ、と息を止められ盛子は口をただはくはく、と開け閉めした。苦しくて目玉が飛び出し、頭にもやがかかる。


 その時、びゅおおぉと強い風が盛子の室に吹き渡り、几帳を倒し燭台を倒し、竜巻を起こした。天井を見上げて息が詰まったままの盛子の髪は巻き上がり、枕元に一輪挿しにされた牡丹も風にあおられて宙に浮かんだ。彼女はぼんやりとした視界の中、その牡丹が宙で不自然にピタリと止まったのを見た。

 と、その鋭い切り口の枝が、床に落ちた守り袋めがけて突き刺さった。


 ぎ、ぎぎぎぎいやああぁぁぁぁ、と女が盛子の目の前で溶けた。穴が顔を食い破るように大きく広がり、黒い蛆の這うように体中が穴だらけになっていく。ギリギリギリ、と歯を激しく軋る恐ろしい音がこだました。


 何故、何故死なぬ……! 疾く、疾くトく、トクトトと、く……


 唐突に空気が入り込んで、盛子は激しくむせ込んだ。未だ首に手の感触が残り、緩んだ涙腺から苦しみの涙が滝のように流れた。

「なぜ疾く、とく……」と女の嘆く声が盛子の耳元でわんわんと響き、吐き気が込み上げた。呼吸もままならない。苦しさに目を閉じようとした。

 パァ──と突然月の光が強く差し込んだ。再び風が強く吹き込んで、牡丹の花びらが盛子に降り注いだ。ひら、と白く清らかな花びらが舞う毎に、女の声は消え室の闇は薄まっていくのを、彼女は寝転んだままぼんやりと見上げていた。

 牡丹の枝は守り袋を床に縫い止める程深く刺さっていた。





 六、白牡丹


 守り袋には、盛子が基実からもらった文が小さく畳まれて入っていた。血に濡らされたかどす黒く変色していた。二枚の文の間に呪符が挟み込まれてあった。

 そして目を醒ました基通は外聞を気にしてかすぐ室から出て行こうとしたが、ふと思い出したように彼の実母からの文を置いていった。「病で体が思わしくなく、最後の文と申しておりました」と、気まずげに目を伏せて。

 荒れた調度や乱れた衣を直し、くたびれ果て、盛子が文を読んだのは翌朝のことだった。


  何故死なぬ。疾く死ね。


 見慣れた手は確かに、盛子に何度も労りを語ったものと同じ。基実の死を共に慰め合ったはずの女のもの。

 ——その瞬間に盛子は、守り袋は基実のものではなかったと悟った。引き攣ったような笑い声が上がった。

「あぁ可笑しいなんて可笑しい……あはははははぁ……!」


 後生大事に抱えていたのは、呪詛。

 あぁ何と莫迦らしい、私は何と独りよがりな女だったのだろう!

 

「とうに、とうの昔に基実さまは死んでしまったと言うのに……ふふふぅあはははは」


 ついに狂ったのかのかと、側女が色をなくして出ていった。しかし盛子は構わないい。この世で最も心を通わせた男も、張り合った女さえもあの世にいってしまったのだ、誰に構うことがあろうか。


 しかしふ、と笑いを止めた。何故私はあれ程恨まれていたのか。正室の座を奪われ、基通に渡らぬ家督に業を煮やしていたのだろうか。

 基通と至り、初めて向けられた色情の熱が盛子の胸を掠めた。


 あぁそうだ。


「夫ばかりか息子までと、恨まれたんだわ」


 トトト、と駆けてくる足音は確かに幼いときの基通のもの。足繁く通ういとけなさに「まぁ今日も訪れよ」と乳母と笑いあったのが耳に入ったのだろう。

 私を呪い殺そうと、十年!


 あはははぁ、と盛子は再び笑いが止まらない。同じだおなじだ、あはははぁ……! 知らず頬が濡れそぼる。




 盛子は守り袋と基実の最後の文を鴨川へ流した。尚深くなる夫への思いに、もう一人の莫迦な女への思いに、文を千切って水に浮かべた。そして庭の白牡丹は全て首を落とし、これも川へ流した。


 これより後、盛子は不食を患い、白河押小路殿にて基実と同じ二十四の長雨の頃、身罷った。

 基通は盛子の死後、彼女の愛した牡丹を牛車に描き、車紋としたと言う。


(了)

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