「アスコラク‐甘露‐」
夷也荊
甘露
波の音が聞こえる集落に、密集して立ち並ぶ木造の家々。この村の多くの人々は漁業で生計を立てていたが、今は漁を行うことができなくなった。この村を有する国が、他の国とケンカをして負けたから、もう僕たちが漁をすると犯罪になるからだと聞いた。もちろん、村の人たちは村の外からやってきた役人に文句を言った。しかし、この国はもう他の国に万事従うことになったと、繰り返すだけだった。元々漁業組合の集まりが権力と権威を持ち、村のことを決めていたのだから、突然よそ者に村を仕切られるのは、誰も納得しなかった。しかし、役人は従っていれば楽に生活ができると村人を諭した。しかし、僕たちは楽な生活をしたいわけではなく、楽しい生活がしたかっただけだ。
僕の生活は、一向に楽にならなかった。むしろ苦しくなった。漁師だった父親は働かずに昼間から酒を飲むようになり、母親は家事をすることで精一杯だった。僕は役人が言う学校という場所にも行けず、毎日大勢の妹弟のために遠くの農場で働いた。農場では奴隷的な扱いしか受けなかった。農場主は広いサトウキビ畑を持っていたが、心の広さは持っていなかった。農場主の子供たちは皆学校に行っていた。学校では文字や数字というものを学ぶと、農場主の子供たちは誇らしげに話した。僕たちが奴隷主の子供たちと話すのは、禁止されていた。もし見つかれば、また鞭で打たれる。僕たちがそんな恐怖を抱えていることを知っていて、農場主の子供たちはわざと話しかけ、文字や数字を教えようとするのだ。
そんな僕たちの生活に変化が訪れたのは、夏を前にした頃だった。役人は漁業組合を使って、元漁師たちを集めた。元漁師の中でも役人の指示に従っていた人たちは、洋服を着るようになり、言葉遣いも丁寧に変わった。そしてこうしたことの繰り返しが、漁業組合に残る人と去る人とに分断をもたらした。僕の父親のように漁業組合から去った人々は、相変わらず裸同然で暮らし、今の漁業組合は傀儡だと言って組合を嫌っていた。一方、漁業組合に残った人の中では、農場主のような人が増えた。そこに、提案があったのだ。役人はこの村の海辺に工場という物を作ることになったと、宣言した。工場とは、農園のような働く場所だと言う。工場では池に似た水槽という道具で魚を育てて、大きくなった魚を加工して、外に売るのだと言う。皆がその仕組みに首を傾げた。海があるのに、何故わざわざ魚を育てる必要があるのか。元のように、魚を釣ればいいだろう。皆が最も疑問に思ったのは、自分たちで育てた魚を加工までしておいて、自分たちが食べられないと言う点だった。
今まで釣った魚は自家消費できない分を、組合に預け、組合はその魚を加工して山間部の村の人々と交換していた。その交換によって、僕たちは海からは取れない獣肉や毛皮、木の実や樹皮などを得ていた。今度からそれはしないことになったのだ。今までの交換の代わりに、お金なる物が交換をするときに役立つのだと言う。僕たちは騙されたようでもやもやしていた。
しかし、工場が出来て、お金の使い方を覚えると、僕たちの生活は大きく変わった。貧しかった家はさらに貧しくなり、工場で働けるようになった人々は、皆農園主のような生活を送るようになった。父親はこれまでの生活を変えることはできず、工場に不合格だった。僕は嫌気がさして、毎日同じような境遇の友達と遊ぶようになった。僕たちの遊び場は工場から延びる筒の周辺だった。そこにいるだけで、何だか心地よいと感じるようになったのだ。
「何しているの?」
見知らぬ顔の少女が僕に声を掛ける。少女は僕に近づくと、鼻をつまんで風上に飛びのいた。金髪碧眼の少女は、役人の者とも違う洋服を着ていた。まるで一度だけ見たことがある西洋人形のようだった。ここの人たちは皆縮れた黒髪に、黒い瞳をしているから、少女はどこか違う国から来たのだろう。
「危険だわ! あなたたちも早くこっちへ!」
今までここで危ない目に遭ったことなどない。僕たちはただ、工場から外に伸びている筒から出る煙を吸っていただけだ。僕たちが嗤っていると、少女は何かを諦めたようにどこかに行ってしまった。
だが僕は思わぬところで少女と再会することになった。僕の家の夕食に、少女が客として参加していたのだ。この辺りの風習で、夕食に他人を招待するというものがある。それはいくら貧しくても、他人に気前の良さを見せなければ、社会からつま弾きにされるからだ。また、この夕食の誘いを断ることは、その家をひどく侮辱する行為として忌避された。よって、少女は堂々と少ない食べ物を食べることができるのだ。しかし、時期が時期だ。僕は母親にこっそり聞いてみた。
「どうして客なんて入れたの?」
僕は腹立たしかったが、客に感づかれてはならない。母親は当たり前のように、一人だったからと答えた。
「工場が出来てから、犯罪が多いでしょ? あんな女の子一人が歩いていたら、確実に殺されてしまうわ」
食事を終えた少女は、僕に名前を聞いてきた。少女はイネイと名乗った。僕はぼそりと答えたが、少女の耳にはちゃんと届いたようだ。
「ラス」
「いい名前ね。ところで今日のスープは少ししょっぱかったわ」
ラスは内心では、傲慢で横柄なイネイに腹をたてたが、彼女はあくまでも客である。家から出て行くまでは客として扱わなければならない。
「今度は少し甘くしてもらったらいいでしょう」
「甘く? うん、まあいいわ。じゃあ、ごちそうさま」
そう言ってイネイはラスの家から出て行った。
誰もいない港に、一人の女が立っていた。長い銀髪に青い瞳。服も白を基調としている。この村では悪目立ちするだろう。そんな女のもとに、薄紅色の翅を持った蝶がやってきた。驚くべきことに、蝶の体は先ほどのイネイである。イネイは女、アスコラクの従者だったのだ。アスコラクの通り名は首狩天使である。人間の法では裁けない罪人の首を狩る天使であるため、そのように呼ばれている。アスコラクに首を狩られるということは、通常の死ではない。よって、死後もアスコラクのもとで働かなければならない。
「この村は危険だわ」
「何があった?」
「毒よ」
「毒?」
「そう。工場のパイプから毒の臭いがしていた。村の人々はそれを吸っているの。おそらく幻覚作用のある物だわ」
辛い境遇を、せめて忘れたいとその毒に縋っているのか。何とも哀れで、滑稽、そして皮肉なことだと、アスコラクは思った。辛い状況に追い込んだ工場の毒で、己を諫めているのと同じだからだ。
「それで、確認は取れたのか?」
「ええ。名前はラスで間違いない。でも、まだ道を外れてはいない」
「そうか」
「何故、彼が今回の標的なのかしら? ああ、そういえば夕食をごちそうになったわ」
イネイはラスの家でごちそうになった食べ物の事を、語っていたが、アスコラクは聞く耳を持たなかった。
「それでね、私がしょっぱいって言ったら、甘くしてもらえばいいなんて言うのよ? 信じられる? しょっぱいからって、砂糖を入れればいいって問題じゃないのにね」
アスコラクは黙ったままだ。教会がないことが問題なのかもしれないと、アスコラクは思った。こうした植民地支配の中では、信仰も政略者側に塗り替えられる場合が多い。しかしこの村は、明らかに置き去りにされそうになっている。それは大国から遅れているという意味ではなく、あまりにも経済が優先され、挙句この村の人々の事を無視しすぎているということだ。歪な形での変化とでも言うべきだろうか。自分たちが信じてきた物を忘れ、外から持ち込まれた毒に縋る。これでは本当の意味で、誰も幸せになれないだろう。
アスコラクが恐れていたことが起こったのは、翌日の朝だった。浜辺の波打ち際に、村の多くの人々が集まっていた。その中心にはラスの姿があった。人々の手には、鍋や桶などが握られていた。そのまま海水を何度も飲む人の姿も、あちこちで見られた。
「これぞ、神の恵みだ!」
「海水が甘いぞ! 本当に甘い!」
「神は私達を見捨てていなかった!」
イネイはその光景に冷たい物を感じながら、絶句していた。海水をがぶ飲みするなんて、自殺行為だ。それなのに、人々は海水が甘いと口々に叫んでいる。これは一体どうした事だろう。イネイも半信半疑、指に海水を付けて舐めてみた。そして、顔を顰めた。全く甘くなどない。塩水そのものだ。しかも変な雑味と臭いがある。その臭いは、あの工場のパイプから出ていたものの臭いと酷似していた。そして、戦慄する。ラスはしょっぱければ甘くすればいいと、言った。「甘くする」という言葉が、「薄くする」という意味にも使われているとしたらどうだろう。海水が、何かによって、薄められたのなら。
「まさか、工場排水?」
顔を真っ青にして震えるイネイの横を、白い人影が通り抜けた。その人影の手には、大きな鎌が握られていた。アスコラクは、イネイに一瞥もくれず、ラスに歩み寄った。ラスはポカンと口を開けて、アスコラクを見ていた。
「お前、全て知っていて、村人に神の恵みと言いふらしたな?」
「僕は、悪くない」
首を激しく振るラスに、イネイは同情したが、アスコラクにはそんな感情はない。
「人間が生み出した毒を、神の御業として冒涜した罪は重い。よって、お前の首を狩る」
アスコラクはそう宣言して、大鎌でラスの首を狩った。ラスの体はこの世のものとは思えない肌の色をして、あれただれた体には、大やけどを負ったような跡があった。これが毒を毎日摂取した者の末路だった。
アスコラクがその場から何処かに去ると、人々がラスの死体に気付き、悲鳴を上げた。ラスはその最期を持って、人々に毒の恐ろしさを伝え、虚偽の罪を白状することになった。
〈了〉
「アスコラク‐甘露‐」 夷也荊 @imatakei
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