牛の首
安室 作
牛の首
『牛の首』という話を知っていますか。
実際にこの話を知っている人はいませんので、『牛の首』にまつわる創作や噂話を知識として持っているかってことですね。
……現代ではインターネットという便利なものがあります。
私もいくつか『牛の首』という話を拝見させてもらいました。
『話を聞いた人はあまりの恐ろしさに三日と経たず死ぬ』
『誰も話したがらない、この世で最も怖い話』
『そのお題を聞いただけで気を失う者もいる』
『江戸時代の大飢饉から人肉を牛と称して食べた』
『罪人(弱った人?)に牛の首を被らせて、村人総出で狩った』
思いつく限りであげればこういったものでした。でたらめだとか嘘だとか言うつもりは一切ありません。ただこれはあくまで創作した話であって、事実とは異なる、違うものです。
例えば飢餓というやむを得ない事態のため、人を牛と偽って食べた。そういう角度の話がありました。実際はそうではなくて……もっと、そういった本能や生き物の習性からは一番遠いところの領域……
ひとことで言ってしまえば『信仰』でしょうか。
これからお伝えする話は『信仰』が始まりでありキーワードになるんですよ。私としては最低限伝わればいい部分だけかいつまんで言いますので、よく頭の中でイメージしてくださればと思います。
夏の時期、ナスに割り箸を刺して、牛に見立てる、という姿を見たことはないでしょうか。お盆のお供え物のひとつで『精霊馬』と言うんですが……精霊馬やその他さまざまな飾りつけを準備した上で、ご先祖様や亡くなられた方へお祈り……供養をした経験はありますか?
なければもう読まなくていいです。
現代では供養の形式として『精霊馬』が使われていますし、
意味合いや意図的にもそれはそれで正しい認識です。
……昔は違ったんですよ。では、話を始めましょうか。
ある地域に『しづはた山』と言う山があります。
名称が異なったり、部分的に別名で呼ぶんですがここでは割愛します。
山があれば川があり豊かな土地。ただ雨の降らない時期がたまにありまして、人々には水を恵ぐむ雨乞いの山として知られていました。日照り続きの時期や、収穫の時期が終わった時にもお供え物を捧げ、土地と空の恵みに……いわゆる神様ですね。それに感謝をする。
どの地方でもあったとされていますが、たいした違いはないでしょうね。
今でも初詣、受験祈願、安産に交通安全……神様にお祈りをしない人の方が少ないと私は思います。人間には好き好んで神を想像し信仰する頭と知恵があり、それが歴史として連綿と続いている。すごいことですよね。
ただ神様には不満や不平、愚痴などを聞き届けてくださる耳はありますが、頭がありません。昔っから、ただ聞くだけです。それが歯がゆいところでしょうか……
さて、供物にもさまざまありまして、米や野菜、猪などの動物を捧げるのが昔からの習わしです。これも地域によって差が出ますが……おおまかに山など狩猟が盛んなら動物を。農耕なら穀物ってくらいの認識で構いません。
中でも、牛を捧げるというのを至上としているのが『しづはた山』近辺のご先祖さま達でした。雨乞いの儀礼は『しづはた山』の頂上に牛の首を埋めてくる。その行為に特別な効き目があると信じられていて、実際に行われてきた習俗だったんです。
それが千年以上も前から……いつまで続いたと思います?
戦後しばらく、はては近代まで続いていたというから驚きませんか?
まあ自分は文献の記述を見ただけなんですが。
さて人々の常識が変わるにつれ、供物や祈りを捧げる対象も変わりました。時代はうつろいゆくもの。それは仕方ない。神に血を捧げよ! なんて今やったら頭を心配されますしね。
『しづはた山』の近辺では牛の首を奉納するかわりにナスを供物としたそうです。一般に伝わっている精霊馬と合わせたんでしょうかね。ナスを牛に見立てるという点も共通しますし。
ちなみに『精霊馬』って地域によってかなり歴史が浅いんです。江戸時代から続いている所もあれば、戦前・戦後なんて場所もあります。私はそちらに関しては詳しくないので正確には語れませんが。
……ただ、いったい誰がいつ神様にお伝えしたんでしょう?
「今後はナスを牛の代わりに捧げることになりました。お許しください」
とかね。
まあ伝えた人が仮にいたとして、神様にゃ聞く耳はあれど……うーん、どうでしょうか? 正しく理解してくれたかは難しいかもしれません。
それで、山岳信仰? みたいな研究をする方もいまして……伝統が戦後まで根強く残っているので、歴史なんかの研究者に魅力的らしいんです。というか文献どころかご年配の方はそもそも覚えていますからね。かなり検証は正確に進んだはずです。
当時行われた検証では、
供物は実際に捧げられたのか?
期間や頻度、歴史はおおよそどれくらいのものか?
それをメインで調べていたそうです。
『しづはた山』頂上付近。ちょっとした岩場が続くところがありまして、そこが文献でも口伝でも供物が捧げられたとされる場所なんですが。地面を一定のブロックごとに掘り下げる方法で調査を進めていくと……
何が出たと思います?
たくさんの骨です。
成分から年代を割るには多すぎるくらいの量。
そして、たくさんの刃物。包丁やら刀やら。錆とか腐食があっても、調べればおおよその歴史背景は出る……問題は出土した刃物の方です。
生きた牛を引いて山に入るってことはかなり骨が折れるでしょうから、無理のない想像をすれば牛の頭を切り落として持って行くはずですよね。またご年配の方々は牛や動物を引き連れていった、なんて光景は記憶にないそうです。
だから刃物が出土するのはおかしい。
そう思う方が当時いたのかも……
ちなみにこの時の検証、正式な報告が未だ発表されていません。現場で指揮をとっていた研究者が行方知れずになったらしいんです。失踪したとか、不可解な死を遂げたとか……噂話はいくつかありますが憶測の域を出ません。
呪い、なんて言葉が頭をよぎる方もいますかね。
人ならざる何者かの怒りを買ってしまったんじゃないか? と。
本当のところは分かりませんよ。
――案外、人間の来訪を喜んだのかもしれませんし。
それに呪いなんてこの世にありません。この件に限らず状況や事故などが、呪いとしか言いようが無いってだけで……ピラミッド、ツタンカーメンの呪いとかね。まあそういうことだと思います。
さて、中途半端ですが話は伝えたので終わりになります。
おつかれ様でした。
始まりは『信仰』だったのかもしれません。
いつからか願い。次第に畏怖から恐怖へ。そして、今となっては人々の興味すら薄れていってしまった。
ただこの儀式はまだ連綿と続いていて、終わっていません。供物やら血やらを捧げ、その行いに神様は怒るか喜ぶか知ったこっちゃありませんが、その行為の反応として雨をふらす。それは生きています。ずっとね。
神様に選ばれるかは、あなたのおこない次第。
ああ、善し悪しがってことじゃないです。善い行いも悪い行いも神様は見てる……なあんて昔から言いますが、見てないんですよね。そもそも神様に目はないので。
困ったことに神様は勘違いをされることがあります。
よけいな悪意も善意もない分、始末が悪い。
重要なのは、あなたが今までに『それ』をしたことがあるかどうか。そして私の話をきちんと理解し想像できたかどうか。神様の姿かたち、想像はどんなものになったでしょう?
声が聞こえて来ませんか? ぼそぼそとしたつぶやきが。
神様には頭がありません……ただ私達の願いを聞き届ける耳と、お告げを授ける口だけはありますので。
『話を聞いた人は恐ろしさで三日と経たずに死ぬ』と冒頭でお話ししましたが、訂正させてください。『話を聞いて正しく理解した人は三日以内に死ぬ』というのが
重要なのは、牛の首から上を一切傷付けずに死ぬこと。
そうでなくては神に届かない。ただ死んでしまうだけ。くれぐれも間違った死に方はしないでほしい。選ばれたんだしさ。せっかくの行動が無駄になってしまうし、なによりその、勿体無い。
その死はきちんと神へ向かい……
神のために捧げられるべきなのだから。
牛の首 安室 作 @sumisueiti
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