Chocolate Harmony

蜜柑桜

ペダルとハーモニー、それからショコラ

 身体の全ての神経に意識を巡らせ、鍵盤にそっと手を置く。右足のつま先を上げ、ダンパー・ペダルの上へ。息を吸いながら踏み込み、吐くのと一緒に指を深く下ろした。


 親指の打鍵から始まる、重く鳴り渡るアルペジオ。低音の骨格音を聴かせながら、同じ分散和音の連続。そして右手の小指が同音反復で旋律を導く。ダンパー・ペダルを踏み続けているおかげで、音は減衰せず、次に鳴る音と共鳴していつまでも残響が残る。左手の下行、右手の移動、徐々に和音が変わるにつれ、共和音の中に他所者の音が混ざっていく。踏み込んだ右足をやや上げてハーフ・ペダルに。不協和音が耳に耐えられぬ濁りを作り出すぎりぎりのところで——踏み替え。また澄んだ和音ハーモニーの中でアルペジオが続く。


 最初のページを半分まで弾いたところで、響子は鍵盤から指を離した。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品三十一第二番、《月光》第一楽章。長らく自身のレパートリーになっている曲の一つである。弾くのは久しぶりだが、指と足が何か考える前にペダルを踏み替える箇所を判断する。

 耳に入るのは前に弾いた時と同じ和音の連なりと、複数の和音の妙なる混ざり合い。微妙に不協和になり始めた不可思議な響きが聴覚を魅了し、それが不快になる前に切り替える。

 だが楽譜にはペダルを踏み替える指示は書いていない。


 ——もう少し違うやり方も、試してみたいのよね。


 響子はもう一度、鍵盤の上に手を滑らし、曲の冒頭と同じ位置に戻した。改めてペダルを踏み、アルペジオを弾き始める。そして今度は先ほどよりも少し前で、ペダルの踏み替え。


 ——なんか、あっさりしすぎ?


 ペダルの踏みかえが早すぎて、和音の響きが単純すぎる。しかし楽譜を見たところでベートーヴェンの指示は無い。

 楽譜の冒頭に書かれた文言は、「このピース全体をできるだけ繊細に、弱音器なしで弾くことSi deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordino」。楽章全体を弱音器なしで、つまり消音装置を外して弾くこと、という意味だ。

 ベートーヴェンの当時のピアノであれば、しかもウィーンならば、現代のように足踏みペダルなどついていないピアノが一般的だ。消音装置であるダンパーを外すなら膝レバー。現代のピアノでいうダンパー・ペダルの役割をする。

 十八世紀末頃のフォルテ・ピアノなら、現在のグランドと比べてずっと華奢で、残響も短い。消音装置など無くとも、自然と音は速くに減衰する。顔をしかめたくなる不協和音など生じず、まさに楽曲のタイトル通りの「幻想風のquasi una fantasia」響きを作りながら曲が進むはずだ。だからこそ「全体を弱音器なしで弾くこと」という指示書きなのだ。


 しかし、これを現代のピアノでやってしまえばどうなるか。フォルテ・ピアノと違って音の伸びが良いモダン・ピアノの場合、ダンパーを外しっぱなしで弾けば、ハンマーが打った弦の残響が自然に消えるまで長く空間内に居座り、次に弾いた音とどんどんと混ざり合っていく。楽章全体を通してダンパー・ペダルを踏み続ければ、酷い不協和音が生まれてしまう。

 要するに、想定しているピアノが違うため、ベートーヴェンの指示通りには弾けない。別の言葉でいえば、演奏者自身が自己判断でペダルを踏み替え、行き過ぎた不協和音を避けなければならない。


 もう一度、初めから。今度は右足を初めからハーフ・ペダルに。さっきよりも踏む時間を長くして、最初のフレーズの終わりぎりぎりまで踏み続ける。


 ——んー……やっぱり駄目。汚い。


 響きの妙を楽しむどころか、低弦が暑さで振動する電子機器のような汚い音を立てた。またもう一度。思考を止め、目を瞑る。耳だけを頼りに、身体の動きに任せた。聴覚が最良と捉えた刹那が、身体の判断とぴたりと合う。

 もう一度やっても、やはり同じだ。頭の判断を待たずに身体の記憶に任せると、四肢は一定のところで一定の動きをし、それ以外の動作を拒絶した。それを確認すると、響子はペダルの踏みかえから頭を離し、今度は強弱とフレージングへ集中力の向く先を転換して弾き始めた。


 ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪


「今日、随分同じところ弾いてたな」


 その日の夜遅く、響子と二人で食卓を整えながら、夕飯を食べにきた幼馴染の匠がおもむろに切り出す。向かいの家に住む匠はショコラティエで、両親が海外住まいになったために今は一人暮らしをしている。響子の両親も海外滞在期間が多いので、夕飯は二人でとることが多かった。


「《月光》だよな。響子の《月光》、随分弾いてなかったけど。だいぶ色々、いじってた?」

「ああ、うん」


 響子は匠が鞄から取り出したタッパーを受け取った。いつものショコラトリーの試作品だ。


「あのね、今度のオンライン配信に使うからちょっと研究しなおそうかなって思って。ペダルとか強弱とかアクセントとか。やっぱりペダルを踏みかえるタイミングがカギだと思うのだけれど」


 タッパーの蓋を開けて中身をお皿に並べつつ、響子は笑い気味に説明した。


「昔、リサイタルの時にかなり研究したから、もうね、『ここ』っていうところが身体に染み付いちゃってるみたいなの。私の中で一番いい、と思うところ、前に散々、和声の並びとか旋律の繋ぎとか目と耳で分析して弾き込んできたの。そのせいかな。今は考えるより前に身体が判断しちゃって」

「頭と連動しない?」

「んー、頭で変えようと思っても、耳と手と足の方が言うこと聞かない、かな。むしろ無理やり変えようっていう頭の判断に拒否反応起こす感じ」

「これまでの知識と経験と記憶の判断か。直観だな」

「そうかも」


 匠は納得したようで、再び沈黙した。その様子は何か悩んでいる時である。響子には分かる。おまけにいま匠に任せられて皿の上に出しているものを見てもこのことは明らかだった。

 タッパーの中身を全て出し、響子は匠の方へ顔をあげる。


「そしてたくちゃん、これは、迷っているでしょう」


 目の前の真っ白な角皿に陳列したのは、全く同じ形の一口サイズのマドレーヌが五つ。ただしどれも微妙に色が違う。左端はほのかな桃色で、右にいくほど紅い色が濃くなり、一番右端のものにはピンクのグラサージュがかかっていた。

 匠は響子と目を合わさず、マドレーヌに目を落としたまま参ったように言う。


「ベースのホワイト・ショコラ生地は同じなんだけどな。春商品にラズベリー・ピュレを混ぜたのを作りたくて、配合に迷った」

「右に行くほど濃くて、極め付けはラズベリー・チョコ?」


 頷いて、匠は机に手をついてマドレーヌを見つめる。


「ラズベリー入り、女性に人気なんだよ。これはもう俺のじゃ解らないから」

「つまり私の出番?」

「夕飯前だからひとかけずつでいいよ。どれが一番いいか、響子の感性で」

、ですか」


 匠は珍しく心底自信がなさそうで、響子がマドレーヌに手を伸ばして口に運ぶのを横で真剣に見守る。匠があまりにじっと見るのでなんだかくすぐったい。それでも響子が一つずつ吟味し、最後の一つを飲み込むと、匠が響子の顔を伺いながらゆっくりと口を開いた。


「どれが、一番いいと思う?」

「んぐ。えと、ね」


 グラサージュの甘酸っぱさが喉の奥に落ちていってから、響子は右から二つ目の濃い紅色のマドレーヌを指さした。


「これ、かな。どれも美味しかったんだけど、コーティングが無いからかラズベリーの味がずっと濃厚で美味しい。ホワイトチョコが甘いから余計にベリーの酸味がいい感じ」

「やっぱり、これか」


 急に力が抜けたらしく、匠は大きな吐息と一緒に口に出す。


「実は初めに比べた時に、響子ならこれ選ぶと思ったんだけど。響子の直感がこれなら信じられる」


 今日、家に来て初めて匠が顔を崩した。ここまで安堵の露な匠の表情は響子の前でも珍しく、胸がどきりとする。なにせ響子も今日は、ちょっと緊張しているのだ。


「じゃぁ……これも、たくちゃん、気にいるかな?」


 匠に見えないように、テーブル・クロスの下に隠しておいた袋を、響子はおずおずと取り出した。差し出された匠の方は、急にしおらしくなった響子をきょとんとして見てから、響子が手に持つものの方へ視線を移した。透明な水色のセロハンで包み、濃い青のリボンを掛けた小さな箱である。


「あの、ね。たくちゃんに手作りケーキなんて、と思ったんだけど。直感でたくちゃんが好きそうなレシピと思ったもので、あの、ブランデーケーキ、作り、ました。」


 「ホワイト・デー……なので……」と添えた言葉尻が小さく窄まってしまう。まさかプロのショコラティエ相手にお菓子を作るなど思い切りすぎかもと思ったものの、もらったショコラに対してお返しを買うのは考えられなかったのだ。だから作ったのだが、こんなマドレーヌを出されてしまったらもう不安が募ってきた。

 匠はいつまでも無言だ。プロ相手に、と機嫌損ねちゃったかな、困ってたらどうしようと、そぅっと顔を上げた。


 すると響子の手から小箱がふっと無くなり、入れ替わりに頭にぽん、と大きな手が乗っかる。


「ありがと。嬉しい」


 ——う、あ。


 顔が一瞬で熱くなる。


 ——たくちゃん、その顔は反則です……


 今度は別の意味で頭が上げられない。一瞬前までの不安は吹き飛んだのに、心臓が早鐘みたいに鳴っている。


 匠の手は温かく、響子に向けられた笑顔が優しい。


 こんな時にどうしたらいいのか。

 それが直観で分かるようになることなんて、きっといつになっても、あり得ない。


 ♬♬♬♬♬♬♬♬♬♬♬♬♬♬♬♪♩Fine.











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