見知らぬ計算
香月読
見知らぬ計算
それは、一つの解だ。
生まれつき身体が弱かった。生を受けてからしばらく保育器の中で過ごした。幼児期の健診は必ずと言っていいほど引っ掛かった。病院には週何回も足を運んだらしい。
このことについて記憶にないものもあるが、それは家で見つけた母子手帳に書かれていたので知っている。要検査の文字は当然のようにページを踊り、注意事項が隅に幾つも書き込まれている。私と言う人間を知らなくても、これを見れば身体のポンコツ具合がよくわかるだろう。
実際書き込まれた通り、私は自由に過ごせることが少ない。少し走れば息が上がるし、体温調節が苦手な為か季節の変わり目には必ず高熱を出す。薬品や化粧品の類で皮膚がかぶれるのもよくあることだった。
だからこれはふと受け取った直感ではなくて、そういう積み重ねて来た経験からの直観だったのだと思う。
ある日、本当に突然、それまで何とも思っていなかったのに、急に花が見たくなった。薔薇でも桜でもない、紅に染まった梅の花を。
世間は丁度冬が終わって春になった頃だった。暦も花見月に変わり、カレンダーに書かれたその文字を見たからかもしれない。ならどうして梅なのだろう、とは思ったが、それは時期だからだろう。梅はもうすぐ終わってしまうので、見たいなら急がないと。そんな理由だ。
月が末になれば、もう桜の時期が来る。その頃にはもう梅が零れてしまうだろう。それよりも早く、どうしても見たくなってしまったのだ。
花を愛でる心は人並みにあるつもりだ。だがあくまで、人並みだ。
急に思い立ってからは早かった。自宅で細々とやっていた在宅仕事を片付けた勢いのまま、新幹線の切符を取り水戸へと向かった。
青い空に散るほどに咲いた紅い梅を見たい。そんな気持ち一つで動いていた。
普段なら休み休み移動するのに、手洗いに寄ることすら少ないまま駅のホームに降りた。初めてやって来た駅ではあったけれど、右往左往することもなく案内表示を見て動けばすぐ外に出られる。北口にあるバス乗り場には、調べた通りの行き先が書かれていた。
これに乗って行けばすぐだ。逸る気持ちを抑えながら、バスが来るのを待つ。
バスに揺られるとすぐに眠くなるのに、今日は眠くならない。これも普段とは違うことだ。どうしてこんなに梅を見たいのかわからない。口で説明することもできない。ただ些細な「普段とは違うこと」が積み重なって大きな流れとなっている気がした。
幾つかのバス停を過ぎた頃、ふわり、と良い香りが鼻をくすぐる。
ああ、梅の香りだ。直に見たことなんて殆どないのに、それがそうだと何故かわかった。事実顔を上げて窓の外を見れば、山の緑が並ぶ手前に、紅白の色が乗せられていた。
「偕楽園前―、偕楽園前―」
アナウンスが到着を告げ、バスは車体を揺らしながらゆっくりと停まった。待ち切れずに何度も足踏みをしながら料金を支払い、目的地が同じらしかった何人と一緒にバスを降りた。
そこは確かに、梅が溢れる楽園だった。名前の由来がそうなのかは知らないが、少なくとも私は楽園だと感じた。
風に乗って運ばれる香り、青い空と緑の山に映える白と紅の花弁、春を告げる草。
丸い花弁が本当に零れるように大地に吸い込まれたのを見て、私は自身を突き動かしていた衝動が何なのか、やっと理解した。
私の身体はもう長く持たない。
ふと浮かんだ直感ではなく、今までの生活で積まれた式から導き出した解だ。
私の身体は、本能は、これを綴る思考以上に自らを観察できているのだろう。本日の体熱、脈動、何かを欲して何を求めないか。そんな些細なこと全てを使って、己の寿命を知ろうとしていた。きっと幼い頃から身体が弱かった為に備わったセンサーのようなもの。
そしてそれは、鋭敏に「見抜いた」。
答えを知れば成程、ここまで急いてやって来たのも当然だ。
人に限らず、動物はより良いものを求める習性を持っている。きっと私を突き動かしていた衝動は、その習性に従っただけに過ぎない。生命が終わることを知ったからこそ、最期の走馬灯に映す景色と思い出を求めたのだ。
「よく、わからないね」
何の根拠もない。理由もない。宣告をされたわけでもない。けれども自らの全てが、逃れようもない未来だと訴えている。
数式により算出した解が不変なように、それは絶対的なものだと直観した。
はらり、はらり。
風に舞う小さな花弁は、まるで紅い雪のようだった。
零れた花弁を見送った幹もまた、空に向かって手を伸ばすように生えている。
大地を彩る香雪、なびいて舞う風待草。
結える文も、春を告げる相手もいないけど。
どうか、どうか。今はその姿を映させて欲しい。
見知らぬ計算からどうしようもない解を見つけてしまった私の目に、その美しい姿を。
見知らぬ計算 香月読 @yomi-tsuki
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