太陽の停止線
詩一
走れ、走れ。太陽が停止線を越えてからも。
ガサガサと音がして、僕はそちらへ走った。
しょげた夏草のハードルを跳んで跳んで、ふくらかな
「もういいよ」
と言われてからどれくらい経過しただろうか。
早く捕まえなければ。太陽は停止線より手前にいるけれど、それでもずるずるとオレンジの倦怠感を放って落ち始めている。
あとせめてもう一回。できることなら二回くらい。まだみんなと遊んでいたい。
『隠れ鬼』。かくれんぼと鬼ごっこを合わせた遊びだ。かくれんぼは見つかった時点で逃げられないが、隠れ鬼は鬼に見つかってもタッチされるまで逃げ続けることができる。そして全員タッチしたらそこで仕切り直し。最初に触られた人が鬼役になり、みんなが隠れる仕組みだ。
鬼が鬼以外のプレイヤーを追いかけて触る。ゲームにこの特性がある以上、鬼は本気で走らないと興ざめだ。
茂みの中からスポーツ刈りの男の子が飛び出してきた。見つかったと思って焦ったんだろう。
スポーツ刈りの男の子——マサトシを追いかけた。
彼の長袖の白いTシャツは、夕日と混ざって輝いていた。まぶしさに顔をしかめながら全力でその背中を追う、追う。
マサトシは速かったけれど、僕も負けていなかった。背中は近くもならず遠くもならない。
彼は途中でコースを変えて僕を
フェンスの向こう側にはくたびれた線路。レールのつなぎ目からは雑草が生えていた。
ぐんぐんスピードを上げる。それでも追いつけず、されども離されず。
まるで時間みたいだなって思った。5秒前の僕が今の僕を追いかけても辿り着くことができないみたいだ。でも諦めたら離されてしまうってあたり、別にそうでもないかって思い直した。
マサトシが巻き上げる土なんかを被らないように、僕は目を守るように片腕を上げてガードしながら走った。こんな走り方では追いつけない。いよいよ土が口に入ったりしだしたので、体一つ分コースを横に取った。
その瞬間に猛風にあおられ失速した。
今までずっとマサトシの体が風を受け止めていたんだ。こんなふうに風を受けながら、あんなスピードで走っていたのか。でも僕も、両手を振って走れる状態になったんだ。
ここからが勝負だ。
もう、あと一回隠れ鬼をしようだなんて考えは消えていた。今彼に追いつくために力を使い果たしてしまってもいいと思った。
太陽が停止線を越えた。
辺りは青色に包まれ、空は
彼の背中も青く黒く明度を下げていて、それは瞬く間に濁っていった。僕はそれに追いつくことができない。
彼は走っていないというのに。
厳密にいえば、二人とも停止していた。太陽の代わりに。
止まるべき太陽が停止線を越えてしまったから、僕たちの時間は止まったのだ。
「なあ、まだ追いかけるのかよ」
マサトシの声が聞こえた。マサトシはずっと手前にいるはずなのに、まるで耳元で言われているようだった。それくらいにマサトシの声は落ち着いていた。
「うん」
「どうして?」
「だって、君がどんどん先に行くからさ。このまま追いつけなかったら悔しいじゃないか」
「なんだそれ」
笑い声が聞こえる。
「マサトシって走るの速いよね」
「ああ。だから誰も俺を追いかけないんだ。じゃんけんで負ける以外、鬼になったことないんだぜ?」
「そりゃすごいや。でもたまには鬼もいいよ。なりなよ、鬼」
「そんなに追いつきたいのかよ」
また笑い声。でもどこか、寂しそうにも感じた。
僕はと言えば、手足は止っているのに心臓だけが脈を早めていって爆発してしまいそうだった。なんだろうこれ。走り終わったときのバクバクとは違う。
そうか。これ。
「追いつきたいよ! 僕は、マサトシに! 駆けっこで勝ちたいとかじゃあない! 今、君をタッチしなきゃいけないんだ!」
またまた笑い声。でもやっぱり、そこには寂しさが在った。
のどが拗ねたときみたいな、細くて高い音が混じっていた。
「お前なら来れるよ。太陽はもうないけれど、それでも追いつきたいって思ってるんだったら、きっと。多分そのために、俺たちはあの日出かけたんだ」
マサトシの声に、曖昧だった記憶が、不鮮明だった輪郭が蘇る。彼の背中がはっきりと見える。
そうしてその瞬間僕は走り出していて。
マサトシが動き出すよりも早く、肩をタッチして引っ張っていた。
——ガタンガタンッガタンガタンッ—―
目の前を特急列車が通過して行った。
僕が肩を引っ張ったのはスーツを着た男性だった。サラリーマン風の彼は驚いた顔でこちらを振り返っていた。見開かれた目には
「え……? あっ!」
彼は口を開けたまま、僕の顔を見てまたさらに驚いたようだった。
多分僕も同じように驚きを顔に張り付けているんだと思う。
二人して駅のホームのベンチに腰掛けた。
「何年ぶりだ?」
さっきよりは幾分健康そうな顔で聞いてくる。
あのときより声も随分低くなった。
「さあ、7年以上会ってないかな。同窓会も来てなかったでしょ?」
「まあな」
笑う。寂しそうに。
ああ、そうか。
「ところでなんでいきなり肩を叩いたんだよ。びっくりするだろ」
「ごめん。マサトシが走り出す前にタッチしなきゃ、間に合いそうになかったんだよ」
「え」
遠くから、レールが軋む音が聞こえる。
「最後に僕たちが隠れ鬼したの、いつだったか覚えてる?」
彼はあごをシャリシャリと撫でて考えている。
「んー、小学生の頃だったかな」
「あのときさ、僕が鬼で終わっただろう」
アナウンスが流れ、次いで電車が滑り込んでくる。
「そうだったっけか?」
「だからタッチしたんだ」
彼は一瞬キョトンとしてからしばらく間を置いて笑った。今度は豪快に。一抹の寂しさも滲ませないで。
「その続きだっていうのか。お前、面白いやつだなあ。前からそうだっけか?」
「人から見た僕のことなんて知らないよ」
そう言って僕も笑う。
——ぷしゅうっ。
電車の扉が開く音がして、中からわらわらと人が出てきた。
「あっ、もう行かねえと」
そう言って立ち上がろうとする彼の腕を僕は掴んだ。
「今日はサボろう」
「は? いや、でも」
「サボろう。僕もそうする」
彼が困惑したような表情で電車と僕を交互に見る。そうこうしている間に電車の扉は閉まり、ゆったりと動き始めた。
観念して彼はベンチに深く座り直した。
「サボってなにやるんだよ」
「隠れ鬼はどう?」
「さすがに笑えねえわ」
言いながらも彼の口元は笑っている。
「迷惑だからな。こんなところでやったら」
「迷惑じゃあないさ。迷惑じゃない。だから大丈夫だよ」
彼はホームの屋根と屋根の間から覗く狭い青空を見て、ふっと息を吐いた。
「そっか」
それから彼はやおら立ち上がり、スマフォを取り出した。
「やっぱり俺、行くわ。会社。もう遅刻だけどさ」
「どうしても?」
「ああ。でもその代わりに番号交換しようぜ。今度はサボらずに遊ぼう」
僕らはお互いの連絡先を交換し合ってそれぞれの電車を待つため、歩き出した。
「ああそうだ」
僕がそういうと、彼は振り返った。
「さっきタッチしたから、今度は君が鬼だ」
「そうだな」
「だから、また今度よろしく」
彼はさわやかに笑って、ガッツポーズを見せる。
「任せろ!」
笑顔を返して、お互いに背中を預けて別れた。
ホームから線路の先を見つめる。遠く、青空と地面の間。ビルとビルに挟まれた停止線の向こうから、レールの軋む音とともに、それぞれの行き先がやってきた。
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