銀の風、走る。

@owlet4242

銀の風、走る。

 東北地方の、ある山裾にポツリと存在する寒村。この村には「銀の風」と呼ばれる、季節の風物詩といえる自然現象が存在する。


 「銀の風」はいつでも観られるものではない。これはいくつもの条件が重なった晩冬に、年に一度見られれば御の字というものなのだ。


 まず、夜から朝の気温が雪が降るか降らないかの微妙な温度であること。

 次に、夜の内に枯れ草の上に霜が十分に降りていること。

 最後に、翌朝の日が登るときに大風が吹いていること。


 この3つの条件が揃ったときにだけ、「銀の風」は走り出すのだ。



◇◇◇


「寒っ……」


 その日の朝、鳴海なるみ優人ゆうとは肌を刺すような寒さで目を覚ました。もう晩冬を迎え、春の準備を整えつつある体に、この寒さはいささか堪えた。


「はぁ~……」


 優人は、緩慢な動作で上体を起こすと、顔の前に水を掬うように両手を近付け、そこに息を吹き込む。両手の中に閉じ込められた息は寒さで白く濁った。

 それを確かめた優人は、今度は布団をはね除けるようにがばっと寝床から飛び起きた。

 今日は「銀の風」が走るかもしれない。

 優人の頭はそのことでいっぱいになっていた。

 優人の部屋は家の二階にある。彼は飛び起きた勢いのまま、窓に手をかけ勢いよく開く。「スパァン!」と気持ちのよい音を立てて開いた窓のその先には、見渡す限り一面に霜が降りた田畑が広がっていた。


 今日は『銀の風』が走るぞ!


 開け放った窓から吹き込む寒風に冷え込む体の芯とは裏腹に、優人は心の芯が沸々と熱を帯びて行くのを感じていた。


「おぉい、優人、起きたか、飯にすっぞ」

「……! じいちゃん、分かった」


 そのまましばらく外を眺めていた鳴海だったが、庭から声をかける祖父に応えて家の中へと引っ込んだ。


 優人が一階に顔を出すと、そこでは既に祖父が朝食を用意して待っていた。


「いただきます」


 挨拶もそこそこに、優人は慌ただしくご飯を口の中へと掻き込んでいく。その速さは流し込むと形容するのが相応しい具合だ。


「おい、優人。飯はも少し味わって食ぇ」


 そんな孫の姿に祖父も苦言を呈する。本来注意をするはずの優人の両親は、仕事のためこの家を離れて久しい。だから、今は祖父が両親のやることを肩代わりしている。


「わーってるよ、じいちゃん」


 優人も、その辺りの事情は身に染みて分かっているので、食べる速度を落として食べ物をゆっくりと咀嚼してから胃に送る。

 そうして口の中を空にしてから、優人は今度は食事を摂るためではなく、祖父に話しかけるために再び口を開いた。


「でも、今日は『銀の風』が走るかもしれんから、はよう外に出たいのよ」

「おう、『銀の風』かぁ。確かに、今日は風が走るには絶好の日だなぁ」


 「銀の風」という言葉を聞いたとたんに、祖父は得心がいったという様子で頷いて目を細めた。

 「銀の風」は、祖父が子供の頃から有名な季節の風物詩だった。細められたその視線の先に、彼は今まで見てきた「銀の風」を幻視しているのだろうか。

 優人はそんな祖父の様子に、我が意を得たりといった表情を浮かべる。


「そったらこって、今日はさっさと飯食って出掛けるわ」

「わーった。でも、飯はも少し落ち着いて食ぇ。『銀の風』が走るにはまだ時間があらぁ」

「そっか。わーったよ、じいちゃん」


 祖父の言葉に頷いて、優人はまた食事に戻ったが、今度の食べる速さは幾分か落ち着いていた。



◇◇◇


「んだら、ちょっと行ってくるわ」

「ああ、なるべくはよう帰ってこいよ」

「わーってる」


 朝食からしばらく。

 祖父との会話もそこそこに、土間に入れてあった自転車に跨がると、優人は風を切って家から飛び出した。

 窓から見たように、道路には一面に夜の霜が残っていたが、未だ陽光の熱を受けぬそれは自転車の起こす風に舞い上がるほどに軽い。車輪をとられることもなく、霜を掻き分け、自転車は田舎道を走る。


 もうすぐだ。もうすぐで着くぞ。


 気持ちが、ペダルを踏む足を速くして、何時もより二割増しの速さで優人は目的の場所へとたどり着いていた。


 そこは何の変哲もない、田畑の真っ只中だった。一つ付け加えるなら、この辺りは全て放棄されて久しい休耕田だった。雑草が伸びるに任せた田んぼは、至るところで枯れ草が霜に食いつかれて頭を垂れていた。

 そんな中を、優人は自転車を押しながらゆっくりと進んでいく。そうしてしばらく進むと、彼の行く手にぽつんと人影が現れた。

 優人はまっすぐ人影へと進んでいく。

 そして、ようやくその姿が判別できるようになったとき、人影は両手を口元に当てて、優人に向かって人懐っこい声で呼びかけた。


「やーっぱり優人だな!」

「んだよ、紫帆ねぇちゃん」


 声をかけられた優人は、早足でそちらに近づく。人影の主は棟方むなかた紫帆しほ、優人にとっては幼なじみであり、二つ上の姉貴分だ。

 もっとも、優人が紫帆に対して抱いている感情はそれら以上のものがあった。


「いやー、うち、今日はここに来たら、絶対優人と会えると思てたんよ」

「俺も、紫帆ねぇのことだから、絶対来てると思てた」


 それでも、そんな思いなどは少しも滲ませることはなく、優人は紫帆と会話を続ける。年下の男からそういったことを言い出すのは女々しいという、年頃の男独特の感覚が優人の足を引っ張っていた。

 しかしそんな優人も、今日は二人の関係を一歩進めるためにここにきていた。

 紫帆は、そんな優人の内心を知ってか知らずかいつもと変わらぬ調子で話し続ける。


「うん。もしかしたらこれから先、何年も見られんかもしれから、今年は絶対に来ようと思うてたんよ」

「そうか……紫帆ねぇは、やっぱり街の大学に出るんか」

「うん。向こう行ったらそんなにこっちには戻ってこられんと思う」


 紫帆は高校三年生。彼女はもう既に都会の大学への進学を決めていたのだった。進学先は電車と飛行機を乗り継ぎ一日がかりの距離となる。

 この田舎でずっと一緒だった、自分と唯一歳の近い女の子。そんな紫帆が居なくなってしまうことが、優人にはたまらなく恐ろしかった。


 もしかすると、紫帆ねぇはもう俺のところには戻って来ないかもしれない。


 紫帆の進学を聞いたときから、優人の胸にはそんな暗い妄想が宿っていた。だから、今日はせめて旅立つ紫帆の心だけでも繋ぎ止めようと、覚悟を決めてこの場に臨んだのだ。


「いや、それにしても今日がこんな絶好の日でよかった。最悪『銀の風』を見んまま向こうに行くことも覚悟しとったからね」

「紫帆ねぇは運がいいから、俺は多分観られると思ってた」

「えー、そうだったんやー」


 それでも、やはり面と向かってしまうと、出てくるのは他愛ない会話ばかり。中々核心には踏み込めない。


「あっ! 見てみぃ、山から太陽が出てきてるわ。もうすぐやねぇ」

「んだな」


 そんなことをしているうちに、いつの間にか山の端には陽光が煌めき始めた。いよいよ「銀の風」が走る条件は、残すところ「大風」のみ。

 差し迫るその時を前に、ついに優人は覚悟を決める。


 ……俺は言うぞ。気持ちを紫帆ねぇにちゃんと伝えるんだ。


 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。

 そして、ついに優人はその口から思いの丈を吐き出した。

 しかし。


「紫帆ねぇ、俺はーー」

「わぁーー」


 その言葉を、どこからともなく走った大風が拐っていった。

 何一つ遮るもののない田んぼの上を駆け抜けていく大風が霜の着いた枯れ草を揺らす。すると、枯れ草に載った柔らかな霜は風に吹かれて一斉に空へと舞い上がる。

 舞い上がった霜は、折から射し始めた日の光を浴びて、まるで銀粉のように煌めき風の形にうねり舞う。


 これこそが、「銀の風」の正体だった。


 それからしばらく、「銀の風」は田んぼの上を走り抜けて、陽光がその勢いを増し始めるとまるで幻だったかのようにふっと消えた。

 この光景は、日の光が強すぎても生まれないのだ。


「いやぁ、今年もすごいのが来たねぇ」

「ああ、そうやね……」


 思いがけず「銀の風」が早く吹いたことと、言葉をさらわれてしまったこと。二つの理由で半ば呆然とする優人は、紫帆への返事も適当に、彼方へと走り抜けていった風の行方を眼で追っていたのだった。



◇◇◇



 帰り道、歩いて来ていた紫帆に合わせて優人は自転車を押して歩いていた。

 しかし、その足取りはとぼとぼと重い。せっかくの告白のチャンスが不意になったのだ。それも無理からぬ話というものだ。

 紫帆もそんな様子を察してか口数が少ない。二人はろくに会話を交わさぬまま、お互いの家への分かれ道についた。


「それじゃ、またね、優人」

「ああ、紫帆ねぇ」


 挨拶もそこそこに、二人は別れる。


 ああ、結局言えずじまいか……。


 肩を落とす優人。


「……優人! 受け取れ!」

「えっ!?」


 そんな優人に向かって、遥か後ろから紫帆の声とともに何かが放り投げられた。

 慌てながらもなんとか受け止めた優人は、手の中のそれが何か確認する。


「これは……カメラ?」


 優人の手の中にあったもの、それはありふれたデジカメだった。彼がそれを確かめたのを見て、紫帆が口を開く。


「優人ー! うちがこっちにいない間、『銀の風』の写真を撮って送ってよ! そうすればうち、向こうでもやっていけると思うからさぁー!」

「紫帆ねぇ……」


 唖然とした表情の優人の前で、紫帆は頭の上で大きく両手を振った。


「もし、ちゃんと『銀の風』を送ってくれたらさぁ、さっき優人の言ったことオッケーしてあげるからさ~!」


 そう叫んだ紫帆は、今度こそ家へ向かって駆け出していく。


「………っ!」


 伝わってたんだ。俺の言葉は、紫帆ねぇに伝わってたんだ!


「紫帆ねぇ、愛してる!」


 胸の奥から沸き上がる暖かい感情を抑えきれず、優人は思わずカメラを構えてそう叫んでいた。

 その言葉が聞こえたのか、紫帆が再び優人の方に振り返る。ファインダーの中の彼女は、今まで優人が見た中で最高の笑顔を浮かべている。その一瞬を逃がさないように優人の指がシャッターのボタンを強く押す。


 「銀の風」が走ったその日、二人の想いは永遠となった。

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