あなたのいない時間

花岡 柊

あなたのいない時間

 一人で過ごす時間は、本当に長い。予定がなくとも早くに目が覚めてしまい、今朝も窓辺からこの狭い東京の空を眺める。濃い青はのびのびと手を広げることもできず、立派なビル群や大きなマンションに遮られて窮屈そうだ。


 私が住むこの家も、空の邪魔をするような十五階建てのマンションだった。真ん中より少し下の七階に住むことになったのは、ラッキーセブンだからとあなたが満面の笑みで選んだからよね。それにのってはしゃぐように決めた私は、いい年をして子供みたいだったと思うわ。


 あの日のことを思い出し、頬を緩める。小さく笑みを浮かべたあとは、一人きりの朝食を用意した。


 私はパンも好きだけれど和食を好んだあなたにあわせて、冷蔵庫にはいつだってお魚やお豆腐。それに納豆を用意していた。

 一人でつく食卓は寂しいけれど、仕方ないわよね。あなたの分のお箸を用意してしまうのだけは、今もやめられない。だって、何もないテーブルなんて、本当に寂しいでしょ。少しでもあなたがそばにいた頃の、穏やかで心地いい雰囲気を忘れてしまいたくないの。


「いただきます」


 手を合わせれば、目の前から柔らかな笑みが向けられる気がする。あなたを思うだけで、一人きりの食事だって、ほんの少しは明るいものにかわるのよ。


 私の日課は、暦を指折り数えること。あの日から、もう四ヶ月が経ってしまったのね。春先の慌しさに紛れるようにあなたがこの家から姿を消し、私がどれほどの悲しみに打ちひしがれたか。一人の時間というものが、これほどに孤独を感じさせるものだなんて知りもしなかった。


 あなたがこの家にいた頃は、一緒に過ごすことが当たり前すぎて孤独なんて考えることさえなかった。

 テレビをつければ、お笑い番組には同じようなところで笑いを零し。ニュースを観れば真剣な表情で語り。音楽番組には、リズムを刻み口ずさんだりもしたよね。

 幼い頃合唱団に所属していたあなたは、少しリズムや音階に煩くて。私が口ずさむ音やリズムがずれているとからかうように指摘するから、ちょっと悔しかったのよ。

 あなたには言ってなかったけれど、今も付き合いのある同級生の清美と一緒に、カラオケに行って練習していたこともあるんだから。

 知らなかったでしょ?

 だって、私はあなたに褒めて欲しかったんですもの。あなたに褒められると、私は子供のように嬉しくてたまらなかったの。


 七月も半ばを過ぎて、気温は随分と上がっているわ。エアコンがなければ、暑苦しくて眠れないくらいよ。

 そういえば昔、リビングのエアコンから水漏れがしてしまい、あなたは得意気になってなおすと言って作業してくれたけれど。結局、余計に酷くなって買い換えることになったのよね。

 あの時はちょっと険悪になってしまったけれど、今思い返せば笑みを零してしまうようなやり取りだったと思うわ。


 あなたがこの家を出てから、リビングにある暦には毎日印をつけているのよ。数字の上に×印を描くたびに、溜息がこぼれてしまう。×ではなく○にすればよかったと思うわ。×ってマイナスのイメージがあって気が滅入るでしょ。一週間描き続けてから、並ぶ×を見て後悔したわ。でも、今更○に描きかえるのもなんだかおかしな感じになってしまうから、仕方なく×を描き続けているの。そんなことを言ったら、私らしいとあなたは笑うでしょうね。


 そう。あなたはいつだって、私のそばで笑ってくれていた。

 仕事がうまくいかなかったときは、下手な言葉をかけるよりも場の雰囲気を盛り上げて笑わせてくれたし。作った料理が失敗した時だって、一気にたくさん頬張っておかしな顔を作って笑わせてくれた。楽しい映画を観れば指をさして一緒に笑い。私が話すご近所話のくだらなさにだって、笑みを浮かべてくれていた。手作りのお菓子を作れば、どんなお店で売られているものより美味しいと微笑みながら褒めてくれた。


 あなたが笑ってくれるから、私も笑えたの。どんなに辛くても、どんなに悲しくても。あなたの笑顔さえあれば、私は幸せな毎日を送れていたの。

 なのに、どうして……。


 悲しみに暮れながら、リビングのチェストに置いてある写真立てを振り返る。


「お茶。出していなかったわね」


 写真立ての中で笑みを浮かべる顔に向かって言い、お茶葉を淹れる。


「はい、どうぞ。今日も朝から暑いわよ」


 写真立ての彼に話かければ、今にも返事が返ってきそうだ。


 再びたくさんの×が並ぶ暦を眺めれば、月日が過ぎたことを改めて思い知る。

 何度吐いたか分からない溜息を零してテレビを点けた。休日の朝にやっている番組は、どれもつまらなくて。あなたがこの家からいなくなる少し前に言っていた、ケーブルテレビを契約すればよかったと後悔していた。

 映画もドラマも音楽番組も、好きなものが観られるんでしょ。だったら、世界中の恋愛映画を観たいな。柄にもないと笑われそうだけれど、一人で観るのだから構わないでしょ。

 あなたと一緒だったなら、アクションでもコメディでもSFだってよかったわ。けれど、もう一人きりだもの。この家で一人過ごす時間の長さは、私に孤独しか与えない。


 結局、これといった番組もなく再びリモコンを手にしてオフにした。


「たまには、散歩にでも行こうかしら」


 インドア派の私は家で過ごす時間の方が好きだから、ついつい出不精になってしまう。家にこもりきりでは運動不足になると、あなたにもよく言われていたわね。

 けれどね、寒がりだったあなたのために、あたたかなマフラーを編み。甘いものが好きだからとお菓子を作ってあげることは、私の喜びでもあったのよ。

 あなたは、私の作ったものを嬉しそうに喜んでくれていたから。作る喜びをうしなってしまった今は、家にいる時間をただ持て余してしまうだけ。

 そうして、また一つ溜息が増える。


 紅茶を淹れて、昨日お隣の佐藤さんから頂いたフィナンシェをつまむ。


「美味しい」


 たくさん頂いたけれど、一人じゃ食べきれないわね。甘いもの好きのあなたがいたら、あっという間になくなってしまうのにね。


 カップの紅茶を口にし、一人きりの静かな部屋にカチコチと鳴る壁掛け時計の音を聞いていた。

 本当に静かね。自分の息遣いさえ寂しく感じるわ。


 寂しさを抱えぼんやりと過ごしているうちに、うとうととしてしまう――――。


 どのくらいの時間が経っただろう。


「――――……さん」


 ぼんやりとする私に向かって、あなたが話しかけてくる。


「――――さん」


 その姿をはっきりと認識した瞬間、私は飛び上がるようにしてソファから身を起こした。


「……どうして!?」


 ありえない現実に思考がついていかず、ただただ驚いていた。


「ただいま。驚いた?」

「当たり前よ。だって、あなた……」

「うん。帰るのは明日って言ったけど。サプライズ」


 全寮制の高校に入った息子の遼平が、満面の笑みで私を見ていた。


 そう。十年前に夫が亡くなってからというもの、一人息子の遼平だけが私の生きがいだった。父親を亡くしたことで自分も辛いはずなのに、いつだって私のそばにいて、頼りがいのある姿を見せてくれていた。


 母さんには、俺がいるからね。安心して。


 夫が亡くなったとき、遼平は笑顔でそう言い。涙で震える私の手を力強く握ってくれた。けれど、進学を決める時、遼平は全寮制の高校を選んだ。寂しい思いをさせてしまうけれど、許して欲しいと。三年経ったら必ず戻ってくると約束してこの家を出たのだ。

 そして、私は毎日のように暦に印をつけ、遼平が夏休みに入るのを今か今かと待ち続けていた。


「明日帰るって言っていたから、冷蔵庫に何もないのよ」


 遼平の大好きな料理を振舞うための買い物は、今日これから行くつもりでいたのだ。


「どうせ家にばかりいたんだろう。スーパー、つきあよ。一緒に行こう」


 一人息子の誘いが嬉しくて、私はウキウキと買い物袋を手にした。

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あなたのいない時間 花岡 柊 @hiiragi9

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