スパイダー・ルーム

koumoto

スパイダー・ルーム

 蜘蛛が出るから――というのが、その部屋に入ってはいけない理由だった。兄が死んだ部屋だから、ではない。

 自分の家に、開かずの間があるというのは、妙な気分だ。魚の小骨が喉に引っかかったような、日常に潜在する不快感。靴に入った砂利よりは、多少の存在感がある。

 兄のことは、あまり憶えていない。ずいぶん歳の離れた兄妹だったし、死んだとき、私はまだまだ幼かった。いや、それなりの年月を共に過ごしてはいたはずなのだ。でも、記憶に残っている面影は薄い。写真を見ても、ピンと来ない。

 憶えているのは、死んでから何年経っても兄の部屋をそのままに維持しようとした、両親の痛ましい努力だ。掃除はするし、埃も払うが、ページを開いたままの読みさしの本や、床に落ちていたコーヒーカップなどは、すべてそのままに残された。兄の部屋は、時を止められたのだ。

 両親はその部屋に入り、いない兄に声をかけ、いない兄と語り合い、いない兄を夕食に呼んだ。食卓の談笑で、父は兄に向けてつまらない冗談を言い、母は兄に向けて職場の愚痴をこぼした。私も、兄にその日の出来事を報告した。猫を見たとか、夕焼けが綺麗だったとか、どうでもいいような些事だ。

 兄は沈黙によって応えた。兄の沈黙は饒舌だった。兄の沈黙は我が家の中心に巣食っていた。兄の遺影は憎たらしいほど爽やかだった。

 生きていた頃よりも、私は兄と仲良くなった。是非もない。歳の離れた兄は、私にとってどこかよそよそしい存在だったが、肉体がなくなってみると、ずいぶん気安い相手になった。イマジナリーブラザー。理解のある兄上だ。まさか、兄に恋愛相談をする羽目になるとは思わなかった。

 両親にとっても、いない兄は口答えも反抗もしない、よき息子であるようだった。父は兄とのキャッチボールに勤しみ、母は兄とのラリーを楽しんだ。我が家は安穏とした平穏に包まれていた。

 そんなふうに平々凡々と時は流れたが、時の流れないはずの兄の部屋に、ある日、異変が起きた。

 蜘蛛が出たのだ。大量に。

 掃除のために兄の部屋に入った母が、悲鳴をあげた。何事かとかけつけてみると、兄の部屋の壁一面に、びっしりとなにかが敷き詰められたようにひしめいていた。壁紙を変えたのかと一瞬おもったが、なんのことはない、蜘蛛である。おびただしい数の蜘蛛である。足の多いモザイク模様を形成していた。

 私の隣で、母は間歇的に悲鳴をあげていた。蜘蛛のひしめく壁を魅入られたように凝視しながら、うわぁ、あっはははぁ、などと奇声まじりの悲鳴をあげていた。笑っているようでさえあった。ムンクの『叫び』みたいな顔だった。お母さんの顔って、こんなだったっけ、と私は不思議な気分にとらわれつつ、蜘蛛と母を交互に眺めた。

 なんだなんだと、トイレにこもっていた父もようやく兄の部屋にかけつけた。壊れたスピーカーのように調子っぱずれな悲鳴をあげつづけている母を見て、母の視線をたどって壁を見て、壁にひしめく蜘蛛を見て、へくっ、うっぷぷぅ、などとしゃっくりのような呻きを父はもらした。笑っているようでさえあった。ピカソの『ゲルニカ』みたいな顔だった。お父さんの顔って、こんなだったっけ、と私は不思議な気分にとらわれつつ、蜘蛛と母と父を順繰りに眺めた。

 私たち三人はしばらくその場で呆然と佇んでいたが、壁にひしめいていた蜘蛛たちが、床にまでごそごそ侵食し始めると、三人とも我に返り、慌てて部屋を出て、扉を閉めた。

 隙間をガムテープでとりあえず塞ぎ、害虫駆除の業者を呼んだ。自分たちであの蜘蛛の軍勢に立ち向かおうとは、到底おもえなかった。

 だが、業者が到着して、兄の部屋の扉を開けてみると――蜘蛛は一匹も見当たらなかった。影も形もなかった。壁の色さえ塗り替えていた蜘蛛たちは、染みひとつ残さず姿を消していた。

 業者がなんの成果もなく帰らされた後も、狐につままれたような気分に我が家は包まれていた。なんだったのだろう、あの蜘蛛は。時の流れない兄の部屋に、なぜあんな異常な光景が……。

 翌日も、蜘蛛たちは兄の部屋に現れた。悲鳴がまたも我が家に響き渡った。またも害虫駆除業者が呼び出された。しかし、またも蜘蛛たちは姿を消していた。

 その翌日も蜘蛛たちが現れると、兄の部屋は厳重に閉鎖される意向となった。だれも足を踏み入れない開かずの間が、こうして我が家に誕生することとなった。

 その後も、時は平々凡々と流れる。父も母も、いない兄と話すことをやめてしまった。兄の沈黙はなにも応えなくなり、死の不在だけが空気を淀ませた。私も兄とは話せなくなった。私の恋愛相談は立ち消えになってしまった。

 時は流れる。時の流れないはずの一画を閉ざしたまま、我が家に無常の時が流れる。

 私は、遠くの大学に通うために、一人暮らしを始めることになった。つまり、この家を離れるわけである。兄の記憶がとどまる開かずの間とも、しばしのお別れだ。

 けれど、魚の小骨が喉に引っかかったまま、靴に砂利が入ったまま、私は私の新生活をこのまま始めていいものだろうか。そんな気にしなくてもいいようなしこりが、私の胸中を少しだけ濁らせていた。

 私は両親が留守の時を見計らって、兄の部屋の封印を破ってみた。施錠を解いて、お札を剥がし、扉を開けて、あれ以来ずっと閉ざされていた兄の部屋に踏み入った。

 兄は、そこにいた。

 読みさしの本から顔をあげて、私と目が合った。よお、と手をかざし、元気か、と言って笑った。

 元気だよ、と私は答えた。

 おまえの恋愛、どうなった? と兄は申し訳なさそうに訊いた。

 振られた、と私は答えた。

 そうか、それはすまん、と兄は頭をかいた。といっても、俺がどうこうできることでもないけれど。

 ここで何してるの、と私は訊いた。

 別に……何もしてないよ、ただいるだけ、と兄はぼんやりと虚空を見つめた。

 私、一人暮らしすることになったんだ。この家を出るよ、と私は言った。

 そうか、と兄は言って、ゆっくりと立ち上がり、私に近づいた。

 握手を求めるように、兄は手を差し出した。釣られるようにして、私はその手を握った。柔らかい感触だった。

「がんばれよ」

 そう言い残すと、兄の身体は崩れ始めた。顔の輪郭がほどけて、それを形づくっていたおびただしい蜘蛛たちが、ぼとぼとと床に落ちて、部屋の四方に素早く散っていった。

 私は兄の部屋の外に出て、扉を閉めた。

 さっき握手した自分の掌を見てみると、逃げ遅れた蜘蛛が一匹、戸惑うようにへばりついていた。

「ありがとう、お兄ちゃん」

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