第7話

 自慢ではないが、幼い頃から頭は良かった。その僕が真剣に勉強に取り組めば、最難関と名高い大学にも難なく合格することができた。今さら実家に戻るのは気恥ずかしいと理由をつけて、卒業したら実家の近くに一人暮らしの部屋を借り、そこから大学に通うことが決まった。

 冬頃から腰の痛みを訴えるようになった祖父も、僕が離れることを契機に、近くの老人ホームに入居を決めた。家屋をどうするかは親戚のなかで色々と話し合われているようだが、僕の知るところではない。

 もはやあの大きく古い家が壊されようが、売り出されようが、僕にとってはどうでもよいことだ。



 あの日、かつてなく表情を輝かせた彼女は、僕に得々と語った。

「この辺りには、龍の笛という昔話があるの。たいてい幼稚園や小学校で教わるのだけれど、太田くんは知らないかしら。昔々、龍の娘が美しい笛の音で、たくさんの村人をさらったというお話。娘はお侍さんに退治されてしまうのだけれど、誰かがその笛を、祀ってあった神社から持ち去ってしまったの」

 どこかで聞いた話だと思って記憶を探り、僕は、かつて父から聞いた話を思い出した。初めてこの笛の音を聞き、興奮して家へ帰った日に、父が僕を脅かすために披露した昔話だった。

「よそで育った太田くんには信じてもらえないかもしれないけれど。この辺りに昔から住んでいる人は、みんな知っているよ。龍の血が、今もどこかの家で受け継がれているということ」

 幼い頃の僕は、父の話を素直に信じて怖がった。しかし成長するに従って父の話を疑い、忘れてしまった。なぜ祖父の語る伝説だけを信じ、父の語った話は、記憶の彼方に追いやってしまったのだろう。

 それもひとつの可能性だったのに。

「龍の家がどこなのかには諸説あるけれど、私の家にはこの笛がある。だから私は試したの。この笛で人をさらうことができれば、証明になるでしょう。そうして私は、成功した。太田くんが家を飛び出してきてくれた、あの夜のことだよ。あのときは、嬉しくて泣きそうだった」

 試されていたという事実に、僕が傷つくことはなかった。笛を目当てに彼女に接していた僕も、似たようなものだと思ったから。ただ、僕の信じた祖父の話と彼女の話とがあまりにもかけ離れていたことだけが、残念に思えた。

 笛の音で人を誘き寄せることができた。その成果を喜ぶ彼女に祖父の話を伝えても、きっと信じてはもらえないだろう。

 彼女の笛は、人をさらうためのものだ。龍を鎮めるためのものではない。

「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫」

 僕の表情を誤解して、彼女は弁明するように言った。

「私はただ、証明したかっただけ。本当に人をさらおうなんて思っていないから。今の世の中、人をさらうなんてそう簡単にできることではないでしょ」


 僕の手元には二つの仮説があって、そのうち一つは僕の家に伝わる説で、もう一つは彼女の信じる説だ。

 あの晩、笛の音に僕が家を飛び出したこと。

 彼女はそれをもって、彼女の説の正当性を語る。

 僕はそれをもって、僕の説の正当性を信じる。

 けれどそのどちらかが本当であると、誰に言い切ることができるだろう。

 僕や彼女の知る由もない真実が、別に存在するかもしれない。


 彼女はきっと、その可能性を認めない。

 彼女は自分の信じるもののために、笛を吹く。

 ほかの可能性のために、彼女が笛を吹くことはない。


「ずっと私の進路を気にしていたよね。私は、この笛を吹き続けるよ。……あの日、成功しなければ、私も普通の人と同じように大学へ行って、どこかに就職して、普通の一生を送っていたと思う。私の母は昔話を信じない人で、試しもしないでやめてしまった。でも私は母のように最初から諦める気にはならなかった。このあいだ太田くんが来てくれて、母もようやく、信じてくれるようになった」

 それでもね、と彼女は困ったように微笑んだ。

「もしかしたら、という不安もあったの。太田くんは、私が夜、外に出るのを嫌がったでしょう。もしかしたら太田くんは、私に好意を持って優しくしてくれているだけで、私の笛が太田くんの心を掴んだわけではないのかもしれない。そう思うと、不安だった……でも、もうそんな不安もおしまい」

 ありがとう、と彼女は明るく言う。

 いつもに比べて、彼女はとても饒舌だった。

「太田くんは、ご両親のところにお帰りなさいよ。暫くすれば私のことなんて忘れてしまう。大丈夫。私はもうしばらく、笛は吹かないことにするから。いつか私が我慢できなくなったそのときは、太田くんじゃなくて、いなくなっても誰にも気付かれないような人をさらうことにする。だから、太田くんが責任を感じる必要もないよ」

 彼女は、彼女の進路を僕が決めてしまったことに、僕が責任を感じるかもしれないと心配しているようだった。まったく的外れな心配だったが、僕はそれを否定することもしなかった。


 にっこりと微笑んだ彼女は、その日を最後に、笛を吹くことを止めた。


 学校ですれ違っても、彼女と話をすることはなくなった。図書室の裏に、彼女が現れることもなかった。神社から笛の音が響くことはなくなり、僕が音に惹かれて家を抜け出すこともなくなった。

 僕と彼女は、そのまま、高校を卒業した。






 高校を卒業すると僕は、同じ高校の友人が誰もいない大学に入った。以来、高校の友人とも、中学の友人とも連絡は取っていない。

 大学ではひたすら本を読み、新しい友人も作らなかった。ここ二、三年は実家にも帰っていない。父も母も、僕に帰ってくるようにと連絡を寄越すことさえ諦めたようだ。

 僕は大きなもめ事も起こさず、つつましやかに生活している。


 目指すものはただひとつ。


 真実がどこにあるのかなど、僕にはどうでもよかった。彼女の説が正しかろうが、祖父の話が正しかろうが。

 笛によって正当性を証明することが、彼女の最も大切な願いであったように。

 僕にとって一番大切な、譲れないもの。

 笛の音。

 ほかはすべて、些事にすぎない。


 いなくなっても誰にも気付かれないような人になれば、彼女は笛の音を響かせて、僕をさらってくれるだろうか。


 僕は彼女の笛の音を求め、ただ一つ、それを得られる存在になることを目指して生きていく。

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笛の音 南波なな @minaminana

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