第6話

 進路調査票には、国内最難関の国立大学の名前を書いた。

 友人たちと示し合わせた結果だったが、僕にとってそれは本心でもあった。実家から通うという親との約束を果たせる大学でもあったし、うまくすれば今住む祖父の家からも通える範囲の大学だ。実家に戻らないことについて親を説得するのには骨を折りそうだが、それが彼女と離れないために必要であれば、僕はどんな労も厭わないつもりだった。

 しかし、肝心の彼女の動向がわからない。

 彼女は進路調査票どおりに、地元の短期大学に行くつもりだろうか。一人暮らしをしてみたいという思いが許されるのならば、どこで暮らすつもりだろう。実家に近いどこかだろうか。あるいは、いっそ頻繁には帰ってこられないほどの遠くだろうか。

 そうして悩んでみると、彼女のことを何もわかっていないことにも気付くのだった。彼女は将来何になり、何をしたいと思っているのだろうか。働きたいのか、主婦になりたいのか、家を継ぎたいのか。そういえば彼女の家の家業はなんだろう。そんな簡単なことでさえ、僕は彼女のことを知らなかった。

 それでも僕は、彼女と離れることを考えることができなかった。



 三年に進学すると、クラスが分かれた。元々、放課後や休日の図書館、公園で会うことが多かったから、クラスが違ってもさほど問題は無いはずだった。けれど日常の視界のなかに彼女が映らないことは、僕にとって不安になった。

「ねえ綾瀬さん。卒業後どうするのか、いいかげんに教えてよ」

「またその話。太田くんはいつからそんなにしつこい人になったの」

「綾瀬さんがそうやって、いつもはぐらかすからだよ」

 僕の焦りはだんだんと、彼女への態度に表れるようになっていた。

 どんなにしつこいと言われようと、どんなに困った顔をされようと、彼女と離れずにいられるよう必死だった。対する彼女もかたくなに、自分の将来について話そうとはしない。だいたいにおいて僕を立てる彼女がこの話になると口を割らない様子は、いっそ不自然でさえあった。

「なんでそんなに進路のことを話したがらないの」

「太田くんこそ、なんでそんなにこだわるの。言ったでしょう、今の時代なら、日本の端っこ同士になったって簡単に連絡が取れるんだから。心配しなくても大丈夫だって」

「クラスが分かれただけでも不安なんだ。近くにいたいと思うのは普通だよ」

「でも、だからって私の進路にあわせて進学先を変えるわけじゃないでしょう」

「……変えてもいいと、思っているよ」

 あまり重いことを言うと、彼女が嫌がるのではないかと思い、それまで強いことを言ったことはなかった。けれどちゃんと言わないと、彼女には伝わらないのかもしれない。自分がどれほど本気に彼女のことを想っているか、離れたくないと思っているか。どれだけ彼女の考えを知りたいと願っているか。

 全てが伝わるように祈って、僕は彼女を真正面に見据えた。

「綾瀬さんと遠く離れるくらいなら、親と喧嘩をしてでも進路を変える。綾瀬さんが遠くの大学へ行って一人暮らしをすると言うのなら僕も引っ越すし、留学すると言うのなら、僕もついて行く。だから、綾瀬さんがどうするつもりなのかを教えてほしい」

 でも、嫌なら諦める――喉まで出かかった最後の一言は飲み込んだ。そんなことは、たとえ声に出したところで口だけだ。嫌がられたところで、僕にはとうてい諦めがつくとは思えない。どんなに罵られようと、僕は彼女と彼女の笛を追い続けるのだろうと思った。

 ふと気付くと、彼女は表情を一変させていた。

「……太田くんは、私の傍にいたいと言ってくれるのね」

 彼女は無表情だった。その顔に、いつもの優しい笑みはない。嫌われたのだろうかとも思ったが、それにしては、軽蔑の色すらない。彼女は完全な無表情で、ただじっと、真っ直ぐに僕を見つめていた。

「家族や友達と、遠く離れることになるのだとしても?」

「うん」

 僕は迷わず頷いた。

 すると彼女はようやく、静かに微笑んだ。


 ぞっとするほど、美しい微笑みだった。


 彼女はおもむろに、通学鞄からいつもの笛を取り出した。僕の目を見て、笛を口元に近づける。

 そうして吹きはじめる前に、僕に問うた。

「一つだけ教えて。太田くんがこがれているのは、私? それとも、この笛?」

 直後に笛の音が響いたので、僕は問いに答えることができなかった。


 その音は、いつか真夜中に響きわたった音色にも似て、それよりずっと美しくも聞こえた。幼い頃に聞き惚れた音はまさにこの音だったとも思えたし、それよりも更に彩り豊かに耳に響くようにも感じた。


 身動き一つ取れず音に聞き入った僕は、音が止んでもしばらく、彼女に急かされるまで、何も答えることができなかった。

「ねえ。どっちなの、太田くん」

「……どちらかと言えば、綾瀬さんの音に、惹かれている」

 失礼なことを言っているという自覚はあった。けれど、その音を前にして、嘘などつけるはずがなかった。


 僕は笛の音に惹かれている。笛の音を求めている。

 綾瀬さんと離れがたく思うのは、彼女が笛の奏者だからだ。


 嫌われるかもしれない。この答えこそが自分と彼女とを隔てる理由になってしまうかもしれない。そういう危機感はあった。それでも、そうとしか答えることができなかった。

 しかし僕の正直な答えに、彼女は意外にも、満足げににっこりと微笑んだ。

「それが本当なら、私は成功したということね」



 彼女の顔に浮かんだ笑みは、それまで僕が見たこともないほど爽やかな、そして誇らしげな笑みだった。

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